平成16年4月13日(火)~6月27日(日)
「筥崎宮」、「学生の街」で知られる箱崎一帯も近年では、JR鹿児島本線の高架工事や、区画整理、街の再開発による高層マンションの建設が急速に進むなど、大きく変わりつつあります。そして、それらの工事や開発にあわせて発掘調査が順次おこなわれており、調査された遺跡や出土遺物から、以前の箱崎の様子が徐々に分かり始めてきました。今回は、その箱崎周辺について、考古学的視点で覗いてみようと思います。
箱崎遺跡の調査地と砂丘地形図 『中世都市研究会』 榎本義嗣氏の作図をもとに作成 |
中世における箱崎周辺の地形と環境(推定) 松浦一之氏の作図を元に作成 |
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砂丘の形成と集落
イイダコ用蛸壺が出土 古墳の調査風景 |
箱崎一帯の基盤(きばん)は、砂丘であることをご存知でしょうか?筥崎宮前のお潮井浜(しおいはま)でおこなわれるお潮井取りは、福博に春と秋の訪れを告げる行事として知られていますが、実は箱崎周辺ではどこを掘っても地下からは砂が出てくるのです。これは博多湾内の自然環境によるものです。博多湾内の海流は、時計と反対方向に流れています。河川が運んできて、湾内に吐き出された土砂は、この海流の作用で河口の右側に押し流されて、堆積していくのです。つまり、この一帯の砂丘は、那珂川、御笠川と宇美川、須恵川、多々良川が運んだ土砂によってつくられています。
現在、この砂丘で見つかっている遺物の中で、最も古いものは、縄文時代の終りから弥生時代初め頃の甕(かめ)の破片と磨製の石斧です。このことから、二千数百年前にはすでに箱崎一帯は安定した陸地であったことを示しています。その後、継続的な集落がつくられ始めたのは、古墳時代の初めのようです。そして、家々は海風を避けるように砂丘の裏側につくられていました。その竪穴住居の跡からは、魚を取る網(あみ)の錘(おもり)や蛸壺(たこつぼ)が出土しており、漁労を生業とする人たちの集落であったようです。また古墳時代の後半期には、砂丘上に直径約14メートルの円形の古墳もつくられていたことが、最近の調査で分かりました。