平成16年4月13日(火)~6月27日(日)
筥崎宮の創建
その後、大きな変化をもたらしたのは、平安時代に筑前穂波郡(現筑穂町)の大分(だいぶ)八幡宮から遷座(せんざ)されたと伝える筥崎宮の創建です。筥崎宮は「筥崎宮縁起」によると、延長元(923)年創建と書かれています。発掘では、10世紀から11世紀代に使われていた井戸や、貯蔵用と考えられる穴などの生活遺跡が調査されています。また、中国浙江省の越州窯(えっしゅうよう)周辺でつくられた貴重な陶磁器が出土しており、一般的な集落とは、明らかに異なる様相を呈しています。その分布の範囲は筥崎宮の南西部一帯に限られており、このことは当時の地形と関係があると考えられています。かつての港湾施設は、現在の博多湾に面している場所ではなく、ずっと東側の多々良川と宇美川の河口部に内海が深く入り込んでいたところがあり、その内海を「箱(筥)崎津(はこざきのつ)」と呼んでいたようです。しかし、その具体的な施設や構造は、まだよく分かっていません。
中世博多湾の一つの窓口
筑前福岡御城下図 箱崎宮一の鳥居 |
最も生活遺跡の範囲が広がり、都市化が進むピークは、平安時代の終り頃から鎌倉、室町時代にかけてです。この時期、博多の街を中心に多くの中国貿易商人が住み始め、博多湾岸一帯は彼らの貿易活動の拠点(きょてん)として発展していきました。箱崎津にも、博多湾内に停泊していた交易船からの舟が入り、対外交流の一つの窓口を担っていたと思われます。
この時期には、建物の遺跡が砂丘のほぼ全域を覆います。海風が吹きつけて、居住域として条件が悪い砂丘の海側斜面にまで、生活域が広がっていくのです。このことは、防砂、防風としての松原の整備が進められ、海側への生活域の拡大を可能にしたのではないかと考えられます。また、この都市遺跡を調査していて、度々目にするものがあります。それは、焼土や炭化物が厚く堆積した土層です。文献史料によるとこの地は、文永2(1265)年に筥崎宮の神殿が火災のため全焼しており、神宝もことごとく焼失してしまったと言われています。また、その9年後の元寇(げんこう)、文永の役(1274年)では、戦火のため筥崎宮一帯は焼け野原となり、さらに延元元(1336)年の「多々良浜の戦い」では、この地で足利軍と菊地軍が激しく戦ったと伝えています。幾層にも重なるこれらの層は、文献などでは伝えていないその他多くの火災や戦火が、かつてこの地であったことを示すものです。そして、この付近に多くの板碑(いたび)が分布するのも、これらのことと関係があるのかも知れません。
最後に
博多湾岸での中国貿易商人の活動は、元寇を期に徐々に衰退していきます。1975年、韓国新安沖の海底から一艘の交易船が見つかりました。この船は、至治3(1323)年、中国慶元(けいげん)(寧波(ねいは))を出港して博多を目指していたことが、その積荷から分かりました。その沈没船からは、承天寺の塔頭(たっちゅう)「釣寂庵(ちょうじゃくあん)」、「筥崎」などと墨書きされた荷物札も出土しました。博多湾岸の商人たちは、大きな戦乱の後も変化する東アジアの貿易情勢に対応しながら、積極的に海外の先進文物を取り入れようとしました。その頃、箱崎の海岸線に築かれ、後に元寇防塁と呼ばれるようになる堅牢(けんろう)な石築地(いしついじ)も、数十年の時間を経て徐々に砂に埋まり、その高さを減じたことでしょう。
(加藤隆也)