平成16年6月1日(火)~7月19日(月)
はじめに
櫛田神社(くしだじんじゃ)の祭礼である祇園山笠。7月1日から15日にかけて博多の町は山笠一色に染まります。その起源は諸説あり、開始された時期は鎌倉時代とも室町時代とも言われています。博物館の山笠展も今年で13回目。今回は福岡藩主黒田家に伝わった山笠図に加え、江戸時代の福岡・博多の地図や寺社の境内図も展示します。お祭りの舞台等になった神社やお寺は当時の福博の人々にとってどのような存在だったのでしょうか。
祇園山笠巡行図屏風 |
江戸時代の山笠図
博多之図 |
江戸時代、博多の人々は山笠に飾る標題が決まると、町奉行所に届け出て、許可が下りた後、清書した山笠図を藩に提出していました。派手すぎるものや題材が適切でないものについては変更を求められたのです。黒田家伝来の六幅対の山笠図はその時提出されたもので、描かれた舁山(かきやま)は現在と異なり、高さ16メートルにもおよぶ壮麗なものでした。現在、飾り山笠として据え置かれているものが動いていると想像してもらえれば分かりやすいでしょう。町に電線や高い建物が無かった時代だからこそ可能であった大きさでした。
福岡・博多の町並と寺社
山笠の舞台となった博多は戦国時代に兵火に遇い荒廃しますが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)により復興されます。太閤町割(たいこうまちわり)と呼ばれた区画整備により現在の博多の基礎が出来上がったのです。その際、博多をお寺の七堂伽藍(しちどうがらん)にたとえ、七小路・七番・七厨子・七堂・七口・七観音が置かれました。山笠を構成する流が7つというのもこれに由来しています。
かたや福岡も17世紀初めの福岡城築城とともに初代藩主黒田長政により計画的に造られたことで知られています。大部分が藩士の屋敷で占められていましたが、現在の昭和通沿いには黒田氏の旧領播磨や中津からやってきた職人たちの屋敷が軒を連ねていました。
両町の土地の利用区分は大きく言って武家地・町人地・寺院・神社の四つに分けられます。寺院に注目すると、博多の蓮池町(はすいけまち)のように、町の周辺部に設置されていることが分かります。これは建物も大きく敷地も広い寺院を戦時に兵站基地として使おうと考えたためでした。一方、神社も城との関わりが密接で、警固神社(けごじんじゃ)と鳥飼八幡宮(とりかいはちまんぐう)はそれぞれ城の東西を守る神として認識されていました。また、現在の西公園には徳川家康を祀る東照宮(とうしょうぐう)が置かれましたが、城下を見下ろすこの地が選ばれたのは必然と言えるでしょう。このように領主にとって寺社はまちづくりのキーとされた存在だったのです。