平成16年6月1日(火)~7月19日(月)
名所としての寺社
筑前名所図会(山笠櫛田入の図) |
領主にとって城を守る存在として考えられた寺社は、しかし、庶民にとっては祭りが行なわれる娯楽の場であり、願いを祈念し参詣する場であり、人々が集まって話合いや勉強をする公民館のような場でありました。これらの場所は人々から「名所」として認識され、地誌類や名所図に多く紹介されることになります。
福岡藩で名所を描いたものとしては、『筑前名所図会(いくぜんめいしょずえ)』が有名です。博多については鳥瞰図や名産品に引き続き、櫛田神社と山笠が真っ先に描かれ、博多一の名所であったことが窺えます。一方、福岡では筆頭に荒戸(あらと)山の東照宮が登場し、以降松囃子(まつばやし)の描写へと続きます。これらが紹介される順番は、藩が定めた寺格等とも異なり、庶民の名所基準といったものがあったようです。この他にも『筑前国続風土記附録』や明治初期の作の『筑前三十三ヶ所札所絵図』等に福博の寺社が描かれていますが、それぞれアングルや注目する場面に違いが見られるのが興味深いところです。
第一番 大乗寺 |
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第七番 冷泉寺 | 第九番 長宮院 |
山笠と寺社
これら名所として紹介された寺社の中で山笠と関わりが深いのは、櫛田神社以外では、東長寺(とうちょうじ)や承天寺(じょうてんじ)などが挙げられます。東長寺はその末寺の神護寺(じんごじ)が櫛田神社の神宮寺であった関係で、承天寺は山笠発祥の地として、それぞれ追い山のコースに含まれたと言われています。山の入軒は寺にとって重要な意味を持っていたようで、幕末には山が寺内に入ってこないことを不当として、承天寺が度々藩の寺社奉行に訴え出ています。寺院の位置は櫛田入りの基準ともなっており、前の山が東長寺を出てから次の山が動き出すというルールもありました。また、これらの寺社は、時間をかけてゆっくりと山を舁いていた元禄以前には、広い境内を利用して昼食を摂るための休憩所としても使われていました。
おわりに
以上、描かれた寺社と山笠との関わりを町の成り立ちと人々の名所認識から探ってみました。領主と庶民の間で寺社に対する考え方に差が見られたのが、いかにも江戸時代らしく、また、藩の庇護厚い他の名刹を差置いて、櫛田神社が先に紹介されているのが、いかにも博多っ子らしい名所観であったと言えるのではないでしょうか。
(宮野弘樹)