平成16年6月29日(火)~9月26日(月)
3、帰郷・独立
又四郎が京都での修行を終え、福岡に戻った時期は不明です。しかし、明治14年(1881)には東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に「筑前国福岡天神町 高田又四郎」として《不動明王像》他を出品していることから、京都にいたのは2年ほどであったと思われます。
帰郷後、彼はまず博多麹屋(こうじや)町で仏師を開業し、福岡天神町、福岡呉服町、博多綱場町と数度の転居の後、最終的には福岡呉服町(現・舞鶴2丁目)に工房を構えます。そして、明治17年(1884)には後に近代彫刻家となる山崎朝雲(本名春吉(はるきち))を弟子にしています。
この頃の作品には、明治17年(1884)の博多・妙楽寺蔵《聖観音(しょうかんのん)立像》(№5)、同24年(1891)の志摩町・常泉寺(じょうせんじ)蔵《大黒天像》(№6)などがあります。また、制作年は不明ですが、台座裏に「天神丁住」と記すニ丈町・龍国寺(りゅうこくじ)の《十一面観音立像》(№7)も、比較的早い時期の作品と思われます。
いっぽう、又四郎は仏像だけでなく、仏壇の装飾や装身具の一種である根付(ねつけ)など、工芸品的な作品も制作しています。姪浜・興徳寺(こうとくじ)の《仏舎利塔(ぶっしゃりとう)》(№8)は、同寺を開いた大応国師(だいおうこくし)の舎利(しゃり)(遺骨)を納めたもので、軒にあらわされた龍や飛天の繊細な彫刻に、根付等で培(つちか)われた卓越した技術をみることができます。また、明治30年(1897)に制作した個人蔵《般若面(はんにゃ)》(№9)も、そのような彼の一面をあらわす貴重な作品です。
6.大黒天像 | 7.十一面観音立像 | 8.仏舎利塔 | 9.般若面 |
4、寺院との絆(きずな)
ところで、多くの仏師たちが生活に困窮した明治期に、又四郎が仏師として活動することができたのは、福岡・博多の寺院を中心に個人的な人間関係が築かれていたからに他なりません。
その点では、まず彼を京都仏師のもとで修行させた聖福寺の愚渓和尚の存在が最も大きかったでしょう。しかし、そのほかにも又四郎の仕事をたどっていくと、臨済宗寺院を中心に何人かの住職の存在が浮かび上がってきます。
最初姪浜・白毫寺の住職で後に博多・妙楽寺住職に転じた省隠(しょういん)和尚もその一人と思われ、前記妙楽寺の《十三仏画像》には「省隠奉持」と箱書きがあるほか、明治17年(1884)には白毫寺の本尊を修理させているなど、早い段階から又四郎に仕事を依頼しています。また、作風から又四郎の作と判断される妙楽寺蔵《地蔵菩薩立像》(№10)は、省隠和尚の子孫の家に伝わったものです。
そのほか、又四郎は明治23年(1890)に、省隠和尚の師で、千代・崇福寺の住職であった一翁(いちおう)和尚の画像を描いています。一翁和尚は、前記妙楽寺の《聖観音立像》(№5)の台座にも寄付者として名前を記しているので、やはり彼と関係が深い一人と思われます。
いっぽう、又四郎は明治18年(1885)に博多・東長寺(とうちょうじ)住職の天亮(てんりょう)和尚の画像を描いているほか、前原市・大悲王院(だいひおういん)の不動明王像を修理するなど、真言宗寺院でも活動していたようです。
5、旧博多大仏
又四郎の生涯のうち、おそらく最大の仕事の1つに数えられるものに、称名寺(しょうみょうじ)の旧博多大仏の原型制作があります。
この大仏は、兵庫県の能福寺(のうふくじ)に建立された大仏の首(試作品)をもらい受けて改鋳し、明治45年(1912)に、当時博多土居町にあった称名寺境内に建立された青銅製の釈迦如来坐像です。
像高は1丈9尺(約5メートル)あり、博多名物として市民に親しまれていましたが、大正7年(1918)には称名寺の移転によって現・東区馬出(まいだし)に移され、その後昭和17年(1942)に戦時の金属供出によって姿を消しました。
この大仏は博多の磯野鋳工所によって鋳造されましたが、その原型(ひな型)の制作は、仏師である又四郎に依頼されました。現在、その原型は所在不明となっていますが、完成した大仏の写真からその姿を窺い知ることができます。
ところで、この大仏には石造りの台座が設けられており、その内部には日本仏教の各宗派を開いた8人の祖師像を安置するようになっていました。実は、現在も称名寺境内にはその台座とともに、《八宗祖師像(はっしゅうそしぞう)》(№11・12)が残されており、その全てが像底などに記された銘文から高田又四郎と、慶次郎・徳次郎の2人の弟子によって、明治37年(1904)に制作されたことがわかります。このうち、徳次郎は又四郎の娘婿で、晩年まで仕事を共にしたといわれる竹崎徳次郎のことと思われます。
製作中の旧博多大仏 | 称名寺に残る旧博多大仏台座の内部 | 14.旧博多大仏の百毫 |