平成16年6月29日(火)~9月26日(月)
6、晩年・その作風
又四郎は晩年、その工房を「萬法堂(まんぽうどう)」と名付け、大正4年(1915)に69才で亡くなるまで、精力的に仏像の制作を続けています。
没年に近い頃の作品としては、聖福寺山門の本尊《千手観音立像》、およびこれを取り囲む十八羅漢像のうち、大正元年(1912)に制作された《慶友尊者(けいゆうそんじゃ)像》と《賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像》が筆頭にあげられます。また、聖福寺にはこの他に、山門の羅漢像の試作とみられる小型の《羅漢像》(№16)が残されています。
ちなみに、山門の残りの羅漢像16体は、結局、又四郎が制作途中で没したので、彼のかつての弟子山崎朝雲が、その後を引き継ぐかたちで大正17年(1924)に完成させています。
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ところで、現在知られている又四郎の最晩年の作品は大正2年(1913)制作の佐賀県・瀧光徳寺(りゅうこうとくじ)の《弘法大師坐像》(№17)です。この像は、江戸時代以来の伝統的な弘法大師像の「型(かた)」にもとづく等身大の力作ですが、その表情や体躯等の表現には、明らかに近代的な写実の感覚が息づいています。実はそこに、彼の目指してきた仏像彫刻の特質が最もよく現れているといえるでしょう。
近代彫刻の開拓者であった高村光雲は「仏臭(ほとけくさ)」くない「彫刻」を作るため、まず西洋流の写実主義を身につけ、そこから個性の表出であるところの新しい表現を模索したといわれています。
弘法大師像にあらわされた写実を見る限り、又四郎もまた、そのような潮流には全く無関心ではなかったのかもしれません。しかし、彼は生涯「居士良慶」と名乗ったように、そもそもが一仏道修行者であり、彼が造る仏像はあくまでも信仰の対象であったのです。
光雲ら明治初期の近代彫刻家にとって、写実が江戸時代以来の伝統からの脱却という大きな意味をもっていたのに対して、伝統的な仏師としての生き方を貫いた又四郎にとっては、写実は仏像を造りあらわすための一つの技術的要素でしかなかったといえるでしょう。
(末吉武史)
10.地蔵菩薩立像 | 11..十一面観音坐像 | 12.伝教大師像 (八宗祖師像のうち) |
13.栄西禅師像 (八宗祖師像のうち) |
15.聖観音坐像 | 16.羅漢像 | 17.弘法大使坐像 |