平成16年7月13日(火)~9月12日(日)
江戸時代のニュース
東京日日新聞創刊号の 記事をつかった新聞錦絵 |
江戸時代のニュースというと、時代劇で見かけるかわら版を思いうかべる人もいるでしょう。最も古いかわら版としては、慶長15(1615)年の大坂夏の陣の様子を描いたものが知られています。ただし、このかわら版の発行時期については諸説があり、リアルタイムで夏の陣を伝えたものである確証はありません。かわら版が、本格的にニュースを伝えるようになるのは18世紀後半からのようです。ただし、かわら版は、正規の出版手続きを経ずに印刷・販売されたいわば違法印刷物で、寛政5(1793)年8月には、「噂事」「火事」について無許可でかわら版をつくって売り歩くことを禁止する触(ふれ)が出されています。しかし、災害の情報など、政治に無関係で世情を騒がせる心配のない内容を扱う分には、かわら版も黙認されていたようです。
幕末期、政情が不安定になると、それまでは登場しなかった政治色の強い内容の記事もかわら版に掲載されるようになりました。とはいっても、出版物に対する規制がゆるくなったのではなく、世の中が混乱しているスキに、正規の手続きを経ていない出版物が、より大胆に入り込んできたのです。
錦絵になった新聞
慶応4年(1868)年正月の大坂や 伏見の火事を伝えるかわら版 |
明治初年、新聞という目新しいメディアは、いかにも「文明開化」を感じさせる東京土産(みやげ)でした。江戸土産の定番だった錦絵をつくっていた版元が、新聞の人気に目をつけ、人目をひきそうな記事を錦絵にして売り出すことを考えつきました。明治7(1874)年8月、『東京日日新聞』から記事を選び、人気浮世絵師落合芳幾(おちあいよしいく)を起用した新聞錦絵『東京日々新聞』は、こうして誕生しました。化学染料の鮮やかな赤を多用し、「新聞」という名を冠した新聞錦絵は大人気となり、『郵便報知新聞』『朝野新聞』などの新聞錦絵も発行されました。また、大阪でも、東京に半年くらい遅れて、新聞錦絵の発行が始まりました。
しかし、この新聞錦絵の流行は長くは続きませんでした。明治8・9年あたりをピークに、新聞錦絵は衰退し、明治12・3年にはほとんど姿を消してしまいます。理由としては、次のようなことが考えられます。新聞の発行部数が増えて急激に普及し、物珍しさがなくなったこと。新聞記事から引用した文章に錦絵を添えただけの情報量では、読者が満足しなくなったこと。新聞錦絵が取りあげていたワイドショー的な記事を得意とする大衆紙(政論を中心に取りあげる「大(おお)新聞」に対して、「小(こ)新聞」とよばれた)や、本文にふり仮名をふって読みやすくした新聞が創刊されたこと。新聞の誕生で生まれた新聞錦絵は、新聞の普及によって終焉を迎えたのです。