平成16年7月13日(火)~9月12日(日)
西南戦争を伝えた錦絵
東京日日新聞の創刊号 (明治5・1872年2月21日) 西南戦争に呼応して福岡の士族が 起こした福岡の変を伝える錦絵新聞 |
明治10(1877)年に起きた西南戦争は、当時の日本人が強い関心を寄せたのはもちろん、ロンドンで発行されていた週刊の新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』にも取りあげられるほどの大事件でした。この日本の近代史上最大の内乱は、征韓論(せいかんろん)で敗れ下野(げや)した西郷隆盛(さいごうたかもり)が鹿児島で設立した私学校(しがっこう)の生徒達が、1月30日に政府所管の火薬庫から弾薬を強奪したことに始まります。熊本や鹿児島などで展開する戦況は、当時、すでに全国に張りめぐらされていた電信を通じて、ただちに中央に伝えられました。9月24日の早朝に始まった城山(しろやま)への総攻撃の末、西郷隆盛らが自刃し、西南戦争は終結しますが。この知らせも、その日の内に、鹿児島の征討総督本営から「電報」で東京へ伝えられました。そして、翌25日には、太政官布告(だじょうかんふこく)によって全国に、西南戦争が終結したことが発表されています。明治4(1871)年に東京-長崎間の郵便が開通した時には、東京―長崎間を95時間と計画されていましたから、電信の開通による情報伝達速度の向上は、驚異的であったといえるでしょう。
人々の関心が高いだけに、西南戦争に関するさまざまな情報がとびかい、紙面を賑わせました。私学校の生徒達が火薬庫襲撃事件を起こしてから1ヶ月もたたない2月19日に、「(西南戦争に関する)無根(むこん)の伝説等妄(みだり)ニ新聞紙ニ掲載不相成(あいならず)」と太政官が布告を出すほどでした。
西南戦争では、実際に戦場に赴いた新聞記者もいました。『東京日日新聞』の福地源一郎(ふくちげんいちろう)と『郵便報知新聞』の犬飼毅(いぬかいつよし)(のちに首相)です。彼らの記事は評判になり、特に福地は、4月に戦地から京都へ来た際に、京都に滞在中の明治天皇・太政大臣三条実美(さんじょうさねとみ)・木戸孝允(きどたかよし)らに直接戦地の状況を報告しています。
西南戦争関連の記事のみを伝える錦絵新聞もありました。いずれも大阪で出版された物で、『有(あり)のそのまま』『鹿児島県まことの電知(しらせ)』です。3月に創刊され、それぞれ20号、15号まで発行が確認されていますが、なぜか4~5月頃に発行が途絶えています。
戦況やエピソードを伝える錦絵は、西南戦争勃発直後の2・3月頃から、9月の終結をはさんで、翌年にいたるまで数多く発行されました。錦絵は、情報の豊富さや伝達の速さでは、新聞にはかないませんでしたが、視覚的にニュースを伝えることができるメディアとしては、当時はまだ錦絵にまさるものはありませんでした。しかし、写真による報道の登場、新聞の情報量や速報性のさらなる躍進により、錦絵がニュースを伝える時代は終わりました。
ニュース速報の時代へ
現在、事件の第1報が入り号外発行が決定してから、街頭で配布が始まるまでにかかる時間は1時間30分程度だそうです。テレビやラジオの速報や、インターネット配信など、今はさまざまな方法で最新情報を手に入れることができます。しかし、ラジオ放送が始まるまでは、新聞の号外が最速の報道メディアでした。ちなみに、日本で最初に発行された号外は、戊辰(ぼしん)戦争の際、慶応4(1868)年5月15日に旧幕臣たちの彰義隊(しょうぎたい)が新政府軍に敗れた上野戦争を翌日伝えた『別段
中外新聞』です。
日清戦争(1894-95)の際には、新聞各社が競って戦況を伝える号外を日に何度も発行したといいます。当時は、号外売りが競って新聞社から号外を仕入れ、それぞれ街頭を売り歩きました。
(太田暁子)