平成16年9月14日(火)~11月14日(日)
「商標」 商いの広がり
商標看板「脳病緩下剤」 |
登録商標が誕生するのは明治17(1884)年のこと。この年の「登録条例」で初めて商標の登録が認められたのです。商標自体は江戸時代からありましたが、類似の商標が多数現れ競争が激化したのに伴って、この条例が定められたのです。登録商標の誕生は、広域な商いを可能とし商品の流通が飛躍的に広がるという効果をもたらしました。その結果、地方に特約店や取扱店などの代理店を生みだし、そのための看板も多数造られるようになりました。農村や漁村の人々は、この看板を見て、都市への憧憬を一層強くしたことでしょう。こうして都市文化の煌めきが町や農漁村へ波及していきました。
うちが一番 負けない誇り
具体的な商品を記すだけでは、競い合う店では、自分の商品の有利さを表現することができにくいものです。そこで編みだされたのが、「日本一」「本家」などという冠を付けて優越性を示す工夫でした。よそよりも安い「薄利多売(はくりたばい)」などの慣用句などはその代表でしょう。直截的に「誠実」「勉強」などと、商いのあり方を明示した看板なども現れてきました。このような付加価値を付けてより多くの人々を引き付けることを目的とするようになりました。また、大正・昭和時代には、宮内庁御用達(くないちょうごようたし)、勧業博覧会などの受賞歴などを、誇りを持って看板に刻むものも見られるようになりました。
野立看板へ 都市への誘い
野立看板「仁丹」 |
大正から昭和時代に入ると、路面電車や鉄道などの交通網が発達してきます。それに伴って、看板も新たな広がりを見せることになります。鉄道沿線の電柱や壁などに、商品名を記した鉄製の看板が見られるようになってくるのです。ちょっと離れた田園風景のなかにある看板は、今でもまだ見ることができます。また、路面電車の電停の表示の柱などにも、看板を掲示するようになりました。このような路上広告は「野立(のだて)看板」とも呼ばれました。それまで、看板は店舗の前に置くのが当たり前でした。しかしこの野立看板によって、はるか都会を離れた周辺の人々を都へと誘(いざな)うことになったのです。
(福間裕爾)