平成16年9月14日(火)~11月14日(日)
一「大航海時代」の博多
図1 洋地図に見える Facata(博多) (史料1) |
「大航海時代(だいこうかいじだい)」と呼ばれた16世紀、わが国に鉄砲やキリスト教に代表される西洋の文化が到来しました。それまでの天竺(てんじく)・震旦(しんたん)・本朝を三国とする伝統的な仏教的世界観から解放され、中国やインドの遙か彼方に新たな外国を認識することになりました。この波は古来より外国文化受容の窓口として栄えてきた博多にも押し寄せました。「大航海時代」を背景としてヨーロッパで盛んに作られた洋地図に博多の記載が見えます。ルドヴィコ・ジョルジオ作「中国図」(図1)に”Facata”と記されています。日本における主要な都市の1つとして博多が重要であったことを象徴しています。
二 博多におけるキリスト教の広がり
図2 現・博多小学校 (福岡市博多区奈良屋町) で 出土したメダイ(史料9) |
西洋の文化がもたらされた頃、博多を治めていたのは、キリシタン大名として著名な大友宗麟(おおどもそうりん)(図4)です。宗麟の支援によって博多で本格的にキリスト教の布教が開始されました。弘治(こうじ)3年(1557)、宗麟は博多においてイエズス会に教会と司祭館を建設するための土地を与え布教活動を保障しました。博多へのキリスト教の初伝はこれより若干遡(さかのぼ)り、天文(てんぶん)19年(1550)のことでした。前年、鹿児島(かごしま)に上陸し、わが国にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルが平戸(ひらど)から山口(やまぐち)に向かう途中、海路、博多にたどり着きました。博多に建設された教会等は、永禄(えいろく)2年(1559)2月、勝尾(かつのお)城(現佐賀県鳥栖市)に拠る筑紫惟門(ちくしこれかど)の博多焼き打ちによって罹災(りさい)しました。宣教師は豊後(ぶんご)に避難しましたが、博多のキリシタンは自費で教会を再建しています。博多小学校(福岡市博多区奈良屋町(ならやちょう))の建設に先立ち平成10~11年に行われた発掘調査ではイエスとマリアのレリーフを表裏に施した鉛製メダイ(図2)等が出土し、博多における受容層の広がりを窺わせます。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は九州平定直後、箱崎(はこざき)に滞陣中の天正(てんしょう)15年(1587)6月19日、突如バテレン追放令を発しました。この後、一時、博多での布教は退勢に向かいますが、慶長(けいちょう)5年(1600)黒田長政が新たに筑前に入封すると再び勢いを盛り返します。長政は父シメオン如水(じょすい)(図5)や叔父ミゲル直之(なおゆき)の勧めにより、幕府のキリシタン禁令が出される慶長18年までキリスト教を保護しました。