平成16年9月22日(水)~11月14日(日)
6.石餅紋黒漆塗鞍 |
参考:太宰府まで遠乗りの図 (「旧稀集」より)馬柄杓が見える |
2、馬に乗る
馬に乗るためには、馬を制御する轡(くつわ)と手綱(たづな)、馬の背中にまたがるための鞍橋(くらぼね)、馬上で足を安定させる力革(ちからがわ)と鐙(あぶみ)等、様々な道具が必要です。江戸時代には特にこれらの装飾化が進み、蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)や象巌(ぞうがん)の施された馬具が数多く製作されました。また、多くの鞍橋に家紋が入れられる様になつたのもこの時代の特徴と言えます。今回の展示品の中にも黒田家の藤巴紋(ふじどもえもん)や石餅紋(こくもちもん)が配された鞍橋や馬柄杓(まびしゃく)があります。馬具は単なる馬に乗る道具ではなく、家を象徴する存在として考えられていたことが分かります。馬具は甲胃や刀剣等と共に武士のステイタスシンボルとなっていたのです。
ちなみに江戸時代の日本ではほとんど使われていなかった蹄鉄(ていてつ)については安政3(1856)年に11代藩主長溥(ながひろ)が江戸城登城の際に初めて用いた、と「従二位黒田長溥公伝」に記されています。「当時未(いま)だ之を知るものあらず」とあることからも蘭癖大名(らんぺきだいみょう)長溥の先進性が窺えます。
3、馬を知る
馬術とは単に馬の乗り方だけを説くものではなく、「総合的馬学」と呼べるような内容を備えたものでした。毛並みや各部位の形から良い馬を見分ける方法、病気となった時の対処法、馬の力を最大限に引き出すための馬具の知識等々、自らの命を預ける存在に対して当時最先端の学問が総動員されました。
江戸時代に隆盛した馬術の流派の一つに「大坪流」があります。足利義満(あしかがよしみつ)から義政(よしまさ)の時代にかけて活躍した大坪慶広(おおつぼよしひろ)を祖とするこの流派は、その後も徳川将軍家や有力な大名家の庇護を受け、数多くの師範役を輩出しました。
福岡藩ではこの「大坪流」と「大坪本流」が特に盛んでした。後者は元禄時代に齋藤主税(さいとうちから)によって創始され、江戸時代後期に著しく普及した流派で、「大坪流」に改廃を加え、百数十種の伝書を揃え、教則類を整備したものでした。なお、主税の一族は7代にわたって福岡藩に仕えており、多くの馬術書が現在に伝わっています。
18.大坪本流馬相絵 |
馬術書の中で「良馬」とされた馬の特徴をいくつか見てみると、削った筒の様な形の耳、大きな鼻の穴、目の下に肉がある、平らな背中、真っ直ぐな前足等が挙げられています。これは調教困難ながらも戦場での活躍が期待できる良馬が持つ要素を集成したものでしたが、平和な時代が訪れると、単純に見かけだけが美しい、線の細くてクセのない馬が珍重されるようになります。
この風潮に対して8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)は、アラビア馬を輸入するなど実戦的な馬術の復興と改革を行います。福岡藩にもその影響は見られ、藩の馬医を勤めた田中甚助(たなかじんすけ)は阿蘭陀(オランダ)の馬術書を借用し、研究を行っています。江戸時代後期には日本古来からの馬術だけでなく、西洋馬術の導入も各地で行われ始めたのでした。
おわりに
明治時代になると、江戸時代に発達した馬術や馬具の製作技術は衰退してしまいます。西洋の馬が登場したことで、体格が小さな在来種の馬の活躍の場が狭められていったからです。会場では、現在では失われてしまった江戸時代独自の馬と武士との関係をご覧下さい。
(宮野弘樹)