平成16年11月16日(火)~平成17年1月16日(日)
では、もうひとつ注目される絵師と作品を紹介しましょう。福岡藩の世襲の御用絵師の中で最も高禄だった尾形家において、特に優れた画技を持った画家としては2代の守義(もりよし)(1643~82)と3代の守房(もりふさ)(1666以前~1732)の名があげられます。守義は当時の狩野派の中心人物であった狩野探幽(たんゆう)(1602~74・安信の長兄)の弟子で、門下四天王のひとりと称されるほど画名が高い絵師でした。一方の守房も探幽の門人で、ふたりは兄弟子、弟弟子の関係にありました。その兄弟子の守義に見込まれ、守房は尾形家の養子となって家督を継いだのです。また後には狩野姓を名乗ることを許され、尾形家では唯一法橋(ほうきょう)の位に昇り、狩野友元(ゆうげん)と名乗りました。法橋とは、仏教で高位の僧侶に与えられる位のひとつです。法印(ほういん)・法眼(ほうげん)・法橋の位は藤原時代に優れた仏師や絵仏師に与えられましたが、その伝統が江戸時代まで続いているのです。ちなみに狩野昌運は法眼の位に任じられています。
5. えん渓訪戴 |
今回展示している「えん渓訪戴(えんけんほうたい)図」は、そうした守房の作品として新しく発見されたもの。「えん渓訪戴」とは中国の故事を描いた画題で、その内容はおよそ次のとおりです。
中国の書家王義之(おうぎし)(303~361)は、雪の夜にひとり酒を飲み、詩を吟じていましたが、にわかに友人である戴逵(たいき)(?~395?)を思い、河の上流 渓に住んでいた彼の家まで小舟で訪ねて行きました。しかし門前まで来て突然会わずに引き返してしまいました。人がその理由を問うと、もともと興が乗って会いに行ったので、その興が尽きてしまっては会う必要はないと答えたということです。戴逵は当時の文人画家であり、芸術家どうしの偽らざる深い交流を物語る話としてこの故事は有名になり、中国水墨山水画のひとつの画題として描かれるようになりました。日本、特に狩野派の作品としては、狩野元信(もとのぶ)(1476~1559)が京都妙心寺の塔頭(たっちゅう)である霊雲院(れいうんいん)に描いた襖絵(ふすまえ)作品が知られています。
さて、守房の描いた図は、雪山を背景にした冬景色の中、戴逵を訪ねた王義之が彼の家の前まで来て引き返していく場面を描いています。潤いのある神経の細やかな筆使いは、探幽の絵画様式を踏襲するもので、構図もおそらく探幽作品をもとにした構成でしょう。情趣豊かな表現に、守房の力量が遺憾なく発揮されています。また、この作品で注目されるのは、「守辰(もりたつ)筆」という落款です。「尾形家累系」によれば、「守辰」は、守房が守義の養子になった時の名で、つまりこの作品は、守房が尾形家の家督を継いで正式に福岡藩の御用絵師になる以前の作ということになります。守義は、このような作品を見て守房の才能を感じ、尾形家の跡取りとして彼を迎えたたのかもしれません。守辰という名を使っていた若い頃の作品は、画稿類は残っていますが、完成作は珍しく、守房研究にとって重要な作品といえるでしょう。
(中山喜一朗)