平成17年1月25日(火)~3月27日(日)
はじめに
伊崎の玉せせり |
内に博多湾、外に玄界灘を擁する福岡には、古くから海を生活の基盤とする人びとが暮らしてきました。常設展示室(総合)では、これらの人びとが住んだ「ウラ(浦)」と、「マチ(町)」や「ムラ(村)」との交流を取りあげていますが、ここではウラの暮らしをもう少し詳しくご紹介していきたいと思います。
現在、福岡の漁業団体は福岡市漁業協同組合としてひとつにまとまっていますが、かつては志賀島(しかのしま)、弘(ひろ)、奈多(なた)、箱崎(はこざき)、福岡、伊崎(いざき)、姪浜(めいのはま)、能古(のこ)、今津浜崎(いまづはまさき)、唐泊(からどまり)、西浦(にしのうら)、玄界島(げんかいじま)、小呂島(おろのしま)の地区ごとにそれぞれ漁協を持っていました。その多くはウラの伝統を引き継ぎ、福岡市域で古くから漁業を行ってきたところです。
しかし、大規模な埋め立てによって博多湾奥から昔の海岸線が消え、外海の魚種や漁獲量が大きく変化したこの半世紀の間に、人々の暮らしは大きな変貌を遂げました。この展覧会では、かつての博多湾・玄界灘に生きた人々がどのような暮らしを営んでいたかを探りながら、福岡と海との関係をもういちど見直していきたいと思います。
流通と資源の確保
魚をはじめとする漁獲物は、私たちの主食にはなりません。それらは古い時代から交換品として扱われ、もっぱら商品として流通してきました。この特性は、海に生きる人びとの生活を見ていく上でとても大切な点です。各地の漁村では、男性が魚をとり市場に卸すのを「ショウバイ」、女性が行商するのを「アキナイ」と言うことがありますが、これは漁村の流通の仕組みを見事に表しているといえるでしょう。
ただしその「ショウバイ」は常に安定しているわけではありません。自然条件に大きく左右される漁業だけに、おのずと周囲との競争は激しくなります。古くから漁場をめぐる村どうしの争いは絶えることがありませんでした。近隣の村とのせめぎ合いの中で生まれた区域が、漁業権としてまとめられていきました。
漁のいとなみ
流通が漁業の必須条件であるとしても、それ以前に、漁業は魚介(ぎょかい)類、あるいは鯨(くじら)類、海藻(かいそう)類など水生動植物を捕獲することが求められます。そのためにさまざまな漁法が生み出されました。それらは大きく分けて網漁(あみりょう)、釣漁(つりりょう)、その他の雑漁法(ざつぎょほう)に分類できます。何世代にもわたって特定の漁法を続けている人びともいますが、多くの場合は環境に応じてさまざまな漁法を使い分け、また新たに導入して変化に対応してきました。
例えば日本を代表する魚であるタイは、さまざまな方法でとられています。まず思い浮かぶのが1本釣りですが、福岡では延縄(はえなわ)による漁獲が最も多かったようです。その他にも古くは地漕網(じこぎあみ)、のちに二艘五智網(にそうごちあみ)といった網による操業も各地で行われました。奈多や西浦の鯛網は多くの見物人が訪れるほどよく知られたものであったといいます。