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No.257

歴史展示室、黒田記念室

福岡藩主の武具・絵画・書跡・調度

平成17年3月23日(水)~5月22日(日)

はじめに

 大名(だいみょう)家の資料というのは様々な経緯で現在に伝わっています。当館が所蔵する旧福岡藩主黒田家関係の資料も、その大半は江戸時代以来同家に伝来したものですが、それ以外にも、拝領品として家臣へ与えられたもの、婚礼道具として他の大名家に伝わったもの、明治以降にやむを得ない理由で売却されたものなど様々なケースが存在します。今回はそういった中から拝領品や近年購入した黒田家関係の資料を主に取り上げ、それらが作られ、また、使われた背景を紹介します。


第一室 大名の文化活動 歴代藩主の絵画と書跡

 江戸時代の大名は領内統治に力を注ぐ一方で、芸能や学問の修養にも余念がありませんでした。それは、能の興行や歌会の開催等の文化的交流を通じて、徳川将軍家との結びつきを強めたり、他大名家と情報交換を行ったり、家臣団や領民の結束を高めたりすることが、藩主としての重要の仕事のひとつであったからです。そこで、以下では、歴代藩主が残した絵画や書跡から、彼らが携わった文化活動を簡単に振り返ります

1.戦乱を経験した藩主 如水(じょすい)・長政(ながまさ)・忠之(ただゆき)

 黒田藩祖黒田如水は、秀吉(ひでよし)のもとで、和歌を細川幽斎(ほそかわゆうさい)に、茶の湯を千利休に学んでいます若い頃は連歌師(れんがし)を目指していたとも言われており、その後定式化する太宰府(だざいふ)連歌の基礎も築きました。
 初代福岡藩主となったその子長政は、父同様、茶の湯に傾倒し、窯業(ようぎょう)を振興しています。また能の愛好者としても知られ、観世太夫黒雪斎暮閑(かんぜたゆうこくせつさいほかん)や喜多流(きたりゅう)の祖、北七大夫(きたしちだゆう)らと親交を結んでいます。息子忠之の教育にも熱心で、日々の立ち居振る舞いから、文武全般にわたって細かい指示を与えています(3)
  2代忠之も、茶の湯、とりわけ、名物茶器の収集に熱心で、博多文琳(はかたぶんりん)を神屋宋湛(かみやそうたん)から召し上げたことは有名です。自筆の能の番組(4)も残っており、基本的には父長政の影響を受けていたと言えます。また、寺社への崇敬が厚く、所領の寄進の他、荒戸東照宮(あらととうしょうぐう)や桜井神社(さくらいじんじゃ)を創建しています。

2.太平の世の藩主 光之(みつゆき)・綱政(つなまさ)・宣政(のぶまさ)・継高(つぐたか)

 3代光之以降は、島原(しまばら)の乱を最後に、大きな内乱が収まり、政治的には安定期に入った時期と言えます。また、藩内では忠之時代に起きた黒田家騒動によって、家臣団の再編成が進み、藩主の権力が確立した時期でもありました。そのためか、文化活動に力を入れる人物を多く排出しています
  光之は忠之と同じく、寺社を保護し、とりわけ忠之の産神警固(うぶがみけご)神社と自身の産神紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)への崇敬が篤かったと言われています。また、貝原益軒(かいばらえきけん)や立花実山(たちばなじつざん)らも光之の元で活躍の場を与えられており、文化振興に力を入れた藩主であることが分かります。ちなみに、襲封(しゅうほう)(領地を引き継ぐこと)や厄明け等のお祝いの能興行を行うこともこの時期から頻繁に見られるようになります。江戸桜田(さくらだ)の上屋敷(かみやしき)や光之が築造させた福岡城三の丸の下屋敷(したやしき)には能舞台が置かれていました。

13 鶺鴒図/黒田綱政

 4代綱政は歴代で最も絵画を好んだ藩主でした。綱政は、狩野探幽(かのうたんゆう)の末弟、永真安信(えいしんやすのぶ)に絵を学び、永真のもとにいた狩野昌運(しょううん)を御用絵師として召抱えています。綱政の描いた絵は各地の寺社に奉納され、十数点が現在確認できます。家臣へ絵を与えることもあり、旧福岡藩士の家から寄贈された資料群の中に綱政の絵や和歌がひょっこりと現れることもあります(11)。
 病弱のため9年で藩主を退いた5代宣政に代わり、6代藩主に就任した継高は歴代の中でも特に和歌に熱心な人物でした。これは風雅の士として知られた実父、直方(のおがた)藩主長清(ながきよ)の影響とも言われています。継高は有栖川宮職仁(ありすがわのみやよりひと)親王や烏丸光胤(からすまみつたね)に和歌を学び、有栖川宮からは和歌伝授の書を贈られています。享保(きょうほう)の大飢饉の翌年には国家安全祈願として太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)に自画の紅梅図と和歌を、安永(あんえい)4(1775)年には泣き夫人圭光院(けいこういん)の鎮魂のために、和歌を奉納しています。また、宝暦(ほうれき)7(1757)年に家臣らを集めて行ったお花見の席でも和歌を披露しており、さらに大名庭園である友泉亭(ゆうせんてい)を造営した折にも、そこを詠(うた)った和歌を募集しています。伝来した資料の数からも継高の和歌好きが窺えます(18・20)。なお、継高は文事だけでなく、武事の奨励も行っており、頻繁に鷹狩りを行うなど武芸全般の振興もはかっています。

3.藩主の相次ぐ死 治之(はつゆき)・治高(はるたか)・斉隆(なりたか)
 50年間の長きにわたり藩主の座にあった継高は、しかし、嫡子に恵まれませんでした。しかし、養子縁組により藩主となった7代治之(一橋(ひとつばし)家)・8代治高(京極(きょうごく)家)・9代斉隆(一橋家)は、いずれも若くして亡くなってしまったため、その事績を偲ぶ資料は多くはありません(22~24)。なお、この時期の文化的事業には、天明(てんめい)4(1784)年の東西学問所(修猷館(しゅうゆうかん)と甘棠館(かんとうかん))の設置などが挙げられますが、これは治之の遺命と言われています

4.維新に立ち向かった藩主 斉清(なりきよ)・長溥(ながひろ)・長知(ながとも)


31 竹図

 この時代の特徴としては、藩主が文化の面で海外に目を向け始めたということが挙げられます。生後9ヶ月で10代藩主となったため、父親からの文化的影響を受けることがなかった斉清は蘭学(らんがく)といった方面に興味を傾け、主に鳥類の研究を行います。その実力は蘭癖(らんぺき)大名の番付で西の大関に名前が挙がる程で、また、長崎警備の関係で、あのシーボルトとも交流がありました。

 11代長溥も、養父斉清と実父島津重豪(しまづしげひで)(薩摩(さつま)藩主

)の影響を受け、開明的な藩主として、海外情報の収集を熱心に行います。それは、藩士の長崎留学の励行などに表れ、家臣の蘭学者滝田紫城(たきたしじょう)に宛てた手紙(33)や佐賀藩の近代化に力を注いだ鍋島直正(なべしまなおまさ)との交流を示す竹図(31)からもそれがわかります。
 12代長知が藩主を務めた期間は約2年と短く、また、その後アメリカ留学もしているため、詳細な文化的事績ははっきりしません。しかし、近年では、明治になって衰退しつつあった能を盛り立てようと努力していたことが知られつつあります 。

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