平成17年3月29日(火)~6月12日(日)
はじめに
穏やかな波に、幾隻かの小型漁船が係留(けいりゅう)されている今津湾(いまづわん)。今では、静かで、のどかなイメージが浮かぶ今津(いまづ)周辺ですが、昔は少し違っていました。弥生(やよい)時代には、石斧(いしおの)の製作拠点地(せいさくきょてんち)として専業集団(せんぎょうしゅうだん)が住み、その製品は舟により北部九州一帯に広く運ばれました。その後は、豊富な資源と自然環境を背景に、鉄や瓦の積み出し港として知られていました。そして、平安時代の終わりごろには貿易船が入港を始め、鎌倉時代には、対外貿易港の拠点としての役割を果たしていたのです。今回の展示では、港湾施設(こうわんしせつ)という視点を軸に、今津湾一帯の移りかわりを見ていきたいと思います。
あけぼの
現在の今津 |
現在、この周辺で見つかっている最も古い遺物(いぶつ)は、今山(いまやま)で発見された一万数千年前の後期旧石器時代の石製のヤリ先です。この三稜尖頭器(さんりょうせんとうき)と呼ばれるヤリ先は、ほかのものと比べてたいへん大きく、大型動物を狙うためにつくられたものと考えられています。
その後の縄文(じょうんもん)時代では、いくつかの貝塚が点在しています。注目されるのは大原(おおばる)D遺跡でみつかった草創(そうそう)期から前期ごろにかけての竪穴住居(たてあなじゅうきょ)です。この家は火災にあったようで、焼けこげた建築材が床に散乱した状態で発見されました。そして、住居内の床の上には石の鏃(やじり)だけが、10個よせ集めた状態で出土しています。獲物が捕れることを願いながら、狩の準備をしていたのでしょう。
今山ブランドの石斧(いしおの)
今山の石で作られた石斧 |
2,200年前の弥生時代には、今山で採れる良質な玄武岩(げんぶがん)を使って、石斧を製作する専業集団が出現します。この石斧の分布は、福岡を中心に佐賀県・大分県・熊本県まで広がっています。それはまさに、今山ブランドとも呼べる製品なのです。そしてその発展は、今山が海に面しており、舟で重量のある石斧を運搬(うんぱん)できたことが、大きな要因であると考えられています。
奈良・平安時代には、近年多くの新発見が続いています。その代表に、元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡からみつかった製鉄遺跡と瓦窯の発見があげられます。まず製鉄に関してですが、「延喜式(えんぎしき)」に筑前の「調(ちょう)」のひとつとして鉄があげられており、製鉄遺跡とあわせて大型建物や木簡(もっかん)なども発見され、実際の生産活動のようすが復元されつつあります。そして瓦窯の発見ですが、ここで焼かれた瓦が、古代の迎賓館(げいひんかん)である鴻臚館(こうろかん)や塩・海産物を生産する「津の御厨(つのみくりや)」の海の中道遺跡、船を管理する「主船司(しゅせんし)」の今宿五郎江(いまじゅくごろうえ)に運ばれていたことが分かったのです。これらの生産には、粘土や砂鉄の材料はもちろん、火力となる炭や薪を作るための森林が必要で、そして最も重要な要因は、運搬時の地理的利便性が条件となるのです。
さらに注目される発見は、今山の下で船の建造や修理作業をおこなうドック状の遺構が発見されたことです。木簡も出土しており、公的施設の可能性も考えられています。