平成17年3月29日(火)~6月12日(日)
国際貿易港として
道程図 |
今津が国際貿易港としての役割を担うようになるのには、当時の時代的、政治的な背景があります。平安時代の中期ごろ有力荘園(しょうえん)領主層は、独自に私貿易を行うようになりました。怡土庄(いとのしょう)に属していた今津は、仁和寺(にんなじ)領の荘園となっており、貿易船はこのころ入港を始めたと考えられています。そして仁平(じんぺい)元(1151)年、当時最大の都市であった博多で、街に住む宋人の家や箱崎が大宰府の官人たちに襲われるという事件がおこりました。博多の街には、世情不安の暗雲がいっきに広がりました。そこで博多津からやや離れた今津に目が向けられ、貿易活動の中心が移っていったようです。今津という地名は、博多津(港)を古い津として、これに対して新しい今の津という意味で呼ばれたと言われています。鎌倉時代には、更に多くの貿易船を迎え入れ、人の往来も多く、たいへん賑わって都市的景観(けいかん)を呈していたと考えられています。
今津には、現在も有名な寺が2つ残っています。ひとつは誓願寺(せいがんじ)です。この寺には、東大寺の重源(ちょうげん)や臨済宗(りんざいしゅう)の栄西(えいさい(ようさい))が、大陸に渡る準備や帰国時の拠点として長期間滞在していました。もうひとつは勝福寺(しょうふくじ)です。勝福寺は、のちに鎌倉の建長寺(けんちょうじ)を開いた宋僧の蘭渓道隆(けいらんどうりゅう)が開山した寺です。また、この西側には、昭和33年に土取り工事中に発見された今津古墓(こぼ)があり、約200体の人骨とともに、多くの中国製陶磁器などが出土しています。これらは、宋・元時代の対外交流の一端を示すものです。その後、貿易の中心は平穏(へいおん)を取り戻した博多津に再び移り、今津は河川が運んだ土砂で急速に埋まり始め、港湾施設としての条件を徐々に失っていったようです。(加藤 隆也)
誓願寺 |
勝福寺 |