平成17年7月20日(水)~9月11日(日)
衣笠守昌「賢聖図巻」(部分) |
御用絵師とは
江戸時代、徳川家や各地の大名たちに仕え、さまざまな絵画制作に携わった画家を御用絵師(ごようえし)といいます。御用絵師という職業は中世からありましたが、特に江戸時代には将軍家の御用絵師である狩野(かのう)家を中心とする中央集権的な制度が全国に広がり、江戸絵画のいわばアカデミズムを形成していました。地方の御用絵師たちは、狩野派の一員となることによって幕藩体制を支える役目も負っていたのです。
御用絵師の職分は多岐にわたり、藩主や藩士、僧侶などの肖像画や、藩主の命によって即興的にその場で絵画を描く席画、絵図や絵馬の制作、殿舎を飾る障壁画、博物学的な記録など、さまざまな種類の絵画制作に携わっています。また、狩野派の絵画様式を踏襲し、手本によって制作していくため、全体としてみれば没個性的でマンネリズムに陥った傾向がみられますが、それでも個性的で魅力ある作品を残した御用絵師たちも数多くいました。
今回とりあげるのは、筑前福岡藩の御用絵師だった衣笠(きぬがさ)家の画家たちです。福岡藩には尾形(おがた)家や上田家など、代々黒田家に使えた御用絵師の家系がいくつかありましたが、衣笠家は初代衣笠守昌(もりしげ)(?~1705)から8代守正(もりまさ)(1851~1912)まで、福岡藩の比較的初期から江戸時代末まで続いた家系で、御用絵師として重要な役割を果たしました。また、他家にはみられない特徴的な制作活動も行っています。
衣笠家初代守昌について
衣笠家の初代守昌は、黒田家第3代藩主光之(みつゆき)と4代綱政(つなまさ)に仕えました。画伝類によると、狩野探幽(たんゆう)(1604~72)の門人だったとされています。「牛馬図屏風」を見ると、基本的には水墨画の素養を身につけた絵師であり、大胆な構図と柔らかな筆致によるユニークな画面は、狩野探幽の門人であったことや守昌の名が探幽の名である守信(もりのぶ)から一字をもらったものということも頷ける力量を示しています。しかも狩野派の亜流にとどまるのではなく、自らの個性を全面に押し出した画風は、特筆に値するでしょう。
守昌はまた、元禄(げんろく)の国絵図(くにえず)制作にも力を発揮しました。元禄10年(1697)幕府の命によって始まった国絵図の制作は、はじめ同じ御用絵師である尾形家の絵師が総裁に任じられたのですが、事情により守昌があとをついで総裁を勤めました。今回展示している「形相図(ぎょうそうず)(夜須(やす)郡・早良(さわら)郡・怡土(いと)郡・鞍手(くらて)郡)」は、この元禄の国絵図制作のために現地を取材しながら描かれた下図に相当するもので、そこには「衣笠半助」「衣笠半太夫」の署名が散見できます。半助は衣笠守昌の俗名で、半太夫は守昌の息子である衣笠家2代目守弘(もりひろ)(?~1743)のことです。守昌が総裁として全体を監督するかたわら、息子とともに自ら筆をとって精力的に絵図を描いたことがわかります。86枚を数える図には、ほかにも上田権太郎などの御用絵師の名も見え、御用絵師だけではなく町絵師11人も加わっての大事業でした。元禄13年(1700)に国絵図は完成し、守昌はこれを携えて幕府に提出するために江戸に上っています。
以後、絵図の制作は衣笠家の職分として続いていったと考えられ、他の御用絵師にはみられない特色となっています。
衣笠守昌「牛馬図屏風」(向かって右隻部分) |