平成17年7月20日(水)~9月11日(日)
守昌以後の絵師たち
衣笠守由「鉢木・小督屏風」(向かって右隻部分) |
衣笠家は初代守昌、2代守弘のあと、3代守恒(もりつね)(?~1758)、4代守岡(もりおか)(?~1789)、5代守起(もりおき)(?~1798)、6代守由(もりよし)(1785~1852)、7代守是(もりよし)(1822~1894)、8代守正(もりまさ)と続いていきます。 2代守弘には狩野派などの漢画(水墨画を主体とした中国的画題の絵画)ではなく、色彩豊かなやまと絵の遺品が知られています。黒田家6代藩主継高(つぐたか)が格式張った中国的な画題を好まなかったため、守弘に命じて藩主のための室内装飾をさせたという記録もあり、狩野派的な画題をよくした尾形家とは異なった画業が衣笠家の特徴のひとつとなりました。こうしたやまと絵に対する素養は、守弘の父守昌からあったものかもしれません。
3代守恒や4代守岡、5代守起などの作例はほとんど知られていません。おそらくは、絵図制作が、彼らの画業の主体だったのではないでしょうか。6代守由、7代守是、8代守正には屏風や掛幅の作品が残っています。守由の「鉢木(はちのき)・小督(こごう)図屏風」は衣笠家の伝統であるやまと絵作品ですが、守昌や守弘らのような個性的な表現は残念ながら見られません。また、守是や守正作品はどれも狩野派様式の範疇に入るものです。しかしながら、守由や守是は衣笠家の実子ではなく、ふたりとも画技を見込まれて衣笠家の養子となった人物で、御用絵師の家系存続のための努力が払われたことを示しています。
また、8代守正(もりまさ)の時には明治政府が樹立し、御用絵師も廃業となりました。守正は市中で画塾を開き、画事を続けました。彼の弟子から近代福岡の代表的な日本画家である冨田渓仙(とみたけいせん)が排出したことはよく知られています。
(中山喜一朗)
衣笠守弘「形相図」(早良郡部分) |