平成17年9月13日(火)~11月13日(日)
およそ日本の衣服ほど、多彩な技術とデザインをもって、花を表現し続けたものはありません。現在でも、キモノには洋服とは比べものにならないほど沢山の花が取り入れられ、様々な技法で文様化されています。現在のキモノを彩る基本的な技法は、江戸時代の中頃、18世紀に出揃います。染織シリーズ3では、ちょうどその頃の女性の装いに表された花文様を特集しています。ところで、それ以前の日本の女性は、さまざまな花の文様をどうやって装いの上に咲かせてきたのでしょうか。展示前史として、振り返って見てみましょう。
◆紫式部が着た花は… 平安時代の貴族の女性
12 菊に障子文様小袖 |
『源氏物語』の作者として知られる紫式部は、平安時代中頃の女性です。彼女は、その文才・学才をもって、中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)(藤原道長の娘で一条天皇のお后の1人)に仕えていました。宮仕えのスタイルはいわゆる「十二単(じゅうにひとえ)」。衣を何枚も重ね着する女房装束です。この女房装束を構成する衣の文様とは、もっぱら生地に織り出された文様です。そこには菊や藤などの草花も取り入られていますが、いずれも円文あるいは唐草文などにパターン化されています。生地全体に同じパターンが繰り返し顕れ、仕立てた衣服も上から下まで同じ文様です。実際のところ、紫式部の時代には、人それぞれの装いへのこだわりは、文様よりもむしろ、袖口(そでぐち)や襟(えり)、裾(すそ)にわずかに見える衣の表地と裏地、あるいは、重ね着する衣の色の取り合わせ、すなわち「重ね色目(いろめ)」に発揮されていました。重ね色目の配色の妙こそが、季節感やその人らしさを演出する要素だったのです。
この重ね色目には、数多く花の名前が着けられていました。紫式部は自分の日記に宮中の人の装いを頻繁に書き留めていますが、そこには、「萩」、「紫苑(しおん)」、「菊」などの花の名も登場します。そのほとんどが文様ではなく、その花が咲く季節にふさわしい衣の表地と裏地の色の組合せを差しているのです。例えば、中宮彰子の2人目の皇子の「御五十(いか)」(誕生後50日)の日、紫式部の出で立ちは「紅梅に萌黄(もえぎ)、柳の唐衣(からぎぬ)、裳(も)の摺目(すりめ)」(『紫式部日記』)というものでした。ここに言う紅梅とは、梅の文様を指すのではなく、赤紫色の裏をつけたピンク色の配色を示します。おそらく、その上に黄緑で華やかな織文様のある表着(うわぎ)を着け、緑色の裏のついた白い唐衣という短い上着をはおり、裳を着けたのでしょう。この装いを、彼女自身は、若作りで派手、いっそ仲の良い同僚の「桜の織物の袿(うちぎ)、赤色の唐衣」と取り替えたいくらいだと思っていました。同僚の女房の着ていた「桜の織物の袿」とは、当然、桜文様の衣ではなく、白い表地に紅か紫色の裏地をつけた衣を指します。
ところで、この祝賀の日、参内(さんだい)した女房は皆美しく装っていたのに、一人、色の取り合わせが冴えない人がいました。袖口の色合いもぱっとしないのに、よりによってその人が帝(みかど)の前に置かれたものを取り下げる役割にあたったため、同僚の女房にはとやかくいう人もいたのだそうです。宮仕えする女房たちにとって周囲の人の装いがいかに気になるものであったかが、実感できるではありませんか。
◆淀殿が着た花は… 桃山時代の武家の女性
大坂夏の陣(1615)に散った淀殿は、豊臣秀吉の側室で秀頼の生母です。天下人の跡継ぎを産んだ淀殿は、間違いなく同時代で最も豪華な装いを楽しんだ女性でしょう。そして淀殿が生きた時代にこそ、芽吹き、花開き、実を結び、寒に耐える植物の生命力を写し取ったような草花文様が、活き活きと衣服を彩るようになったのです。
この時代の装いの中心は、現在のキモノによく似た、小袖(こそで)に替わっています。小袖は、元来、貴族の下着あるいは庶民の日常着であった衣が、社会の変化に伴って上着化・上質化してきたものです。淀殿が生まれた16世紀後半には、織物ではなく、まっさらの白い絹地の上に、繍(ぬい)や絞(しぼり)、摺箔(すりはく)などの様々な技法によって文様を後付けした小袖が登場していました。中でも、「辻が花染(つじがはなそめ)」は最も斬新なものでした。「辻が花染」とは、縫締絞(ぬいしめしぼり)に摺箔を部分的に加えたり、細部を描き込んだりして文様を表すもので、ごく短い期間、ちょうど淀殿の生きていた時代にしか行われませんでした(もっとも「辻が花染」とは明治に始まった呼び名。淀殿は違う言い方をしていた筈なのです)。文様の題材は、梅や藤が多く、いずれも大振りに表されます。鳥や雪輪(ゆきのわ)、格子(こうし)柄などと組み合わされる場合でも一番大きく堂々と表されるのは草花でしたから、花の文様こそ、まさにこの時代の小袖意匠の主役を占めていたと言ってよいでしょう。
ところで、淀殿が用いたと考えられる辻が花の小袖の断片が今日までわずかに伝わっており、近年、復元が行われました。淀殿の小袖は、紅と萌葱(もえぎ)を基本色とし、絞で白く染め抜かれた梅や藤、柳の葉が黒の襷(たすき)や松皮菱(まつかわびし)とともに片身替(かたみがわり)(背縫いを挟んで身頃の左右の配色や文様を替えること)に配された、今見ても大変斬新な小袖だったということです。