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No.266

黒田記念室

染織シリーズ3 花の宴

平成17年9月13日(火)~11月13日(日)

◆八百屋お七の着た花は…
江戸時代の町方女性

 惚れた男会いたさに江戸の町に火を放ち、雪降る中、火の見櫓に登って半鐘を叩く八百屋お七。歌舞伎や人形浄瑠璃でお馴染みの恋に一途な町娘は、実在の人物です。鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられたのが天和3年(1683)3月、16歳(一説には18歳)だったといいます。お七と言えば、紅と浅葱(あさぎ)の染分(そめわけ)地に鹿子絞(かのこしぼり)で麻葉繋(あさのはつなぎ)をあしらった黒衿掛け(くろえりかけ)の振袖姿の印象が強いのですが、それは文楽や歌舞伎の舞台衣裳によるもの。文化6年(1809)に『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』で岩井半四郎が演じたお七役の着付けが始まりと言われています。では、お七の実際の装いはどのようなものだったでしょうか。
 お七の生きた17世紀後半、華やかな装いの主役は、武家の女性から富を貯えた町人の妻や娘に移りつつありました。お七は八百屋の娘ですが、家は豊かであったといいますから、贅(ぜい)を尽くした小袖の1枚や2枚、仕立ててもらっていたことでしょう。



4 檜垣山吹文様小袖

 さて、お七が生まれた、ちょうどその頃(寛文6=1666)、『御ひいなかた』という小袖雛形(ひながた)本が刊行されます。日本初のスタイルブックとも言うべきこの本には、草花はじめ様々な文様を、あたかも小袖を一枚の画布に見立てるように、余白をとりつつ、大きな円弧を描くよう配した意匠が、数多く掲載されています。こうした動きに富んだ意匠の小袖を「寛文小袖」と呼びます。「寛文小袖」では、梅に桜、山吹に藤、橘に菊など、身の回りに咲く草花が、自然に生え伸びる姿を活かして文様化され、鹿子絞や金糸繍(きんしぬい)で伸び伸びと表されているのです。
 お七の娘時代はやや遅れますから、寛文小袖よりは少々落ち着いた意匠で小袖を仕立てかもしれません。いずれにせよ手間の掛かった華やかなものであったに違いなく、それを着た姿をこそ、恋しい人に見てもらいたかったのではないでしょうか。
 ところで、お七が没した天和3年、幕府はさまざまな贅沢禁止令を出します。町人の小袖についても、総鹿子(そうがのこ)や金糸繍を禁止し、一領あたりの価格の上限も設けられます。一般に、この禁令が、当時完成しつつあった友禅染が広まるきっかけになったと言われています。糊(のり)防染と色挿し(いろさし)による友禅染は、染め抜きの細い線描や自由自在な色遣いが特色です。草花の文様も、繍や絞では到底表し得ない、細い葉脈や花びらの微妙な濃淡まで表現されるようになります。元禄の世(1688~1704)になると、町方の女性は、こぞって友禅染の小袖をあつらえ、繊細な染文様を楽しみました。八百屋お七も、 実りのない恋に見切りを付けて、親の勧めに従ってお嫁に行くような娘であったなら、鮮やかな友禅染の袖を通すこともあったかもしれません。

 衣服の上の花は、初めはパターン化された織り文様でした。それが、小袖の出現とともに、繍と絞染(しぼりぞめ)を多用して、伸びやかに表されるようになりました。そして、友禅染という技法を得て、絵画のように、あるいは絵画以上に自由奔放に表されることとなったのです。その展開の原動力は、鮮やかな色、馥郁(ふくいく)たる香り、可憐な姿など花が五感を通じて人に与えてくれる美を、余すところなく取り込んで、装いの彩りにしようとする飽くなき願望だったのではないでしょうか。
(杉山未菜子)

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