平成17年9月21日(水)~11月20日(日)
はじめに
蜀葵(「本草正画譜」より) |
江戸時代後期の大名には、熊本藩主 細川重賢 (ほそかわ しげかた ) の虫類 研究、高松藩主 松平頼恭(まつだいらよりたか)の魚類研究、佐野藩主 堀田正敦 (ほったまさあつ)の鳥類研究等々、自然科学の分野の研究に熱中した人物が少なくありません。 彼らは国元や参勤交代の途中で標本を 収集し、江戸では、その集めた情報を交換し合い、 学者顔負けの研究活動を行っていました。 福岡藩でも、 蘭癖大名(らんぺきだいみょう)の西の大関と称された10代藩主 黒田斉清(くろだなりきよ)(1795~1851)と、鹿児島藩主 島津重豪(しまづしげひで)の9男で幼少から西洋の文化に接して きた11代 長溥(ながひろ)(1808~1887)の2人がとりわけ動植物の研究 に傾倒しました 。本展覧会ではこの両者の植物研究、 なかでも 調査の過程で作成された「 図譜(ずふ)」にスポットを当て、福岡藩における自然科学の広まりを紹介します。
1、 貝原益軒 (かいばらえきけん)と「大和本草(やまとほんぞう)」
~日本の本草学(ほんぞうがく)の黎明~
貝原益軒(1630~1714) |
黒田斉清・長溥の事績を紹介する前に、まず、日本の植物研究の歩みを簡単に振り返ってみます。江戸時代以前の植物に関する研究は「本草学」と呼ばれていました。本草学は中国から渡ってきた学問で、植物を中心に薬となる動物や鉱物を調べることを目的としていました。日本の本草学も中国の影響のもと研究が進められていきますが、しかし、貝原益軒の登場によりその流れが変わっていきます。益軒は中国から輸入された本を鵜呑みにせず、自らの足で調べた動植物の情報をもとに「大和本草」を著しました。その結果、中国には無い植物の品種の発見へと至ります。これは同書の大きな成果の一つです。益軒は弟子をあまり多く取らなかったため、本草学における後継者は育ちませんでしたが、 稲生若水(いのうじゃくすい)や松岡恕庵(まつおかじょあん)ら、その後の本草学者に大きな影響を間接的に与えました。
芭蕉(「本草正画譜」より) |