平成17年11月1日(火)~平成18年1月15日(日)
Ⅰ 那津官家とその時代
『日本書紀』には、宣化(せんか)天皇元年(西暦536)に、非常に備え、那津(なのつ)(現在の博多付近)に各地から集めた食料を保管する官家(みやけ)を造らせたという内容の記事が見られます。これが「那津官家(なのつのみやけ)」と呼ばれるものです。
朝廷は筑紫(つくし)の君磐井(いわい)の乱(西暦527年)以後、北部九州の支配が強めていきましたが、国内外に多くの課題を抱えていました。那津に官家を置いたことで朝廷は外交、軍事面での重要な拠点を得ることとなり、国家体制の強化に繋がる画期と考えられています。しかし、那津官家に関しての記録も少なく、実態はよく分かりませんが、後の大宰府に繋がるという説もあります。近年の発掘調査で博多区比恵(ひえ)遺跡から多数の倉庫跡が発見され、その推定地として注目されています。
今回の展示では考古、文献資料を通じて、那津官家の実像に迫ると共に、その設置された時代と地域社会について考えていきたいと思います。
ミヤケとは
史料の上では「官家(ミヤケ)」は「屯倉」、「屯家」、「御宅」とも表記されます。その性格は様々な見解がありますが、文字の通り、ヤケ(家、宅)やクラ(倉)、水田などが付属し、朝廷にとって経済的基盤であり、直轄地を意味するものとされます。
ミヤケの記述は『日本書紀』や『古事記』等に登場し、大和や河内など朝廷の周辺の他、武蔵や上毛野(かみつけの)などの東国にも見られます。
九州においては継体(けいたい)天皇22年(西暦528)に筑紫君磐井の乱の罪を詫びるため、その子の葛子(くずこ)が糟屋(かすや)屯倉を献上した記事があります。その後、安閑(あんかん)天皇2年(西暦535)には筑紫、豊(とよ)、火(ひ)の国の各所にミヤケを置いた記事があり、九州の支配を進めていたことを窺(うかが)うことができます。このような背景な中で、宣化(せんか)天皇2年、朝廷は尾張や伊勢、伊賀のミヤケから稲を運ばせ、また、非常に備え、九州各地のミヤケの稲を集めさせたことは、古くより対外交渉の拠点であった那津を重要視したからではないでしょうか。
比恵遺跡倉庫群全景 (白線が柵列と倉庫) |
Ⅱ 那津官家を発掘する
史料の上ではミヤケは畿内を中心に、全国に設置されたとありますが、その場所を特定できるものはほとんどありません。那津官家も従来、福岡市南区の三宅周辺がその推定地とされてきました。ところが、博多区博多駅南にある、比恵遺跡で6世紀後半から7世紀後半の時期の多数の倉庫跡が発見され、那津官家との関連が注目されるようになりました。その後、早良区有田遺跡で同様の遺構が発見され、那津官家が博多湾に広がる広い範囲で考えられるようになりました。
地名からミヤケを探す
那津官家は、ミヤケに関係する地名からその位置が推定されてきました。これまで2つの有力な推定地があり、福岡市南区三宅はミヤケの地名が付く地域で、ここには奈良時代の寺院跡の三宅廃寺があることからも、那津官家の推定地として有力な場所でした。一方、博多区駅南には古い地名で、「三宅田・官田」等が見られ、ミヤケに伴う耕作地の名残として考えられました。発掘調査で倉庫跡などが発見されたことから、現在はこの地域に那津官家の中心的部分があったと考えられています。この他、この地域には「中津」という地名も見られ、「那津」との関連も指摘されています。
博多区比恵遺跡
比恵遺跡では、1984年の調査で、6世紀後半から7世紀後半の時期の、柵に囲まれた多数の倉庫跡が発見されました。その後も、同様の構造の遺構が比恵遺跡やその周辺で発見され、那津官家に関連する遺跡として注目されることになりました。2000年の調査では最初に発見された倉庫跡の広がりが確認されました。倉庫跡は東西50m以上、南北55~58mの範囲を3列の柵に囲まれ、整然と並んだ状態で10棟が発見されました。奈良時代の郡衙(ぐんが)の倉庫のような配列や3列の柵などはこの時代では特殊なものです。この遺跡は2001年には国の史跡に指定されました。
早良区有田遺跡
ミヤケに関連する地名として、耕地の耕作民に関連する「田部(たべ)」があります。古代では早良郡田部郷(たべごう)という地名が見られ、現在の早良区小田部(こたべ)一帯と考えられています。その地区にある有田遺跡は比恵遺跡と同様の3列の柵に囲まれた倉庫跡が数箇所で発見されています。このような3列の柵は比恵遺跡、有田遺跡以外ではほとんどないことから、両者は関連する遺跡と考えられています。この遺跡では4世紀~5世紀にかけて、朝鮮半島系の土器が多数出土することから、半島の人たちと繋がりがあり、倉庫群の設置に際して、彼らの関わりがあったと考えられます。
博多区東光寺剣塚古墳
東光寺剣塚(とうこうじけんづか)古墳は比恵遺跡の南側にあり、6世紀中頃に造られた前方後円墳です。全長約75mの墳丘には円筒埴輪(はにわ)や人物埴輪等が立てられ、周囲には三重の周濠が巡ります。石室には熊本北部から筑後に分布する石屋形(いしやかた)と呼ばれる遺体を安置する施設があり、それらの地域との関連も指摘されています。この古墳は三重の周濠、石屋形、形象埴輪を持つなど、この地域では特異なものです。また、この古墳の築造を契機に比恵遺跡やその周辺では集落の拡大が見られ、それと呼応するように倉庫群などが造られるようになります。このことから、古墳の被葬者と那津官家の関連が注目されています。