平成17年11月15日(火)~平成18年1月22日(日)
図2 刀 盛高(史料5) |
かつて筑前国には金剛兵衛(こんごうひょうえ)と名乗った刀工が活躍していました。本展では、文献史料も交えて、郷土で作刀に励んだ金剛兵衛一派の刀剣を紹介します。
初代とされる金剛兵衛盛国(もりくに)は、博多(はかた)の出身とも、太宰府(だざいふ)の竈門(かまど)山(宝満 ( ほうまん ) 山)の山伏とも伝えられています。盛国の子盛高(もりたか)以来、嫡流は代々盛高と称しました。また、一門は名前の一字に「盛」の字を使用し、彼らは好んで「金剛兵衛某」と銘を切りました。中心(なかご)の形状を卒塔婆(そとば)の形にするのがこの一派の大きな特徴となっています。
金剛兵衛一派は鎌倉時代の後期に始まると伝えられています。江戸時代中期に貝原益軒(かいばらえっけん)が著した『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』によると、初代盛国は博多に居住し元は山伏で母は末(すえ)の左文字(さもんじ)の娘である、あるいは、太宰府有智山(うちやま)の正応(しょうおう)の子孫であるという2つの説を紹介しています。しかし、確たる来歴は定かではありません。
現存する作品では、「金剛兵衛尉源盛高/正平□四年二月一日」の銘をもつ短刀が最古の作例です。南北朝時代の正平(しょうへい)年間(1346~1370)に該当します。紀年銘を持つ作例に乏しく、歴代の系譜を示すことは今後の研究の進展にまたれるところですが、今回の展示では延徳(えんとく)4年(1492)銘を持つ盛高の脇差(図5)を出品しています。
図1 卒塔婆頭の中心(史料5) |