平成17年11月22日(火)~平成18年1月22日(日)
文明12(1480)年、生の松原(いきのまつばら)を訪れた連歌師宗祇(れんがしそうぎ)は、松原について「大( おおい)さ一丈ばかりにて皆浦風に傾(かし)げたるもあはれなり」 ( 『筑紫道記(ちくしみちのき) 』 ) と記し、また、福岡藩の儒学者貝原益軒( かいばらえきけん)は『 筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』において、「林中広く、白砂清潔にして、風景すくれ、他邦には又たくひもなき佳景也」と評しました。
このように 古くから名所として知られた 生の松原 ( 西区 ) は、千代( ちよ ) 松原 ( 東区 ) とともに博多湾を代表する松原でした。現在、黒松の林は、東は 十郎川 (じゅうろうがわ) 河口、西は 長垂山(ながたれやま)までの約1.5キロメートル間に三日月型に広がり、玄海国定公園の一部で、防風保安林、九州大学農学部付属の演習林になっています。 この展覧会では、 壱岐(いき)(生)神社の創建、元寇防塁の築造、松の植林、唐津街道の整備、鉄道の開通など、時代を追って生の松原の風景の移り変わりをたどります。
1 壱岐神社・和歌の名所 -古代
1 現在の壱岐神社 |
『日本書紀(にほん しょき)』 応神(おうじん)天皇紀 には、武内 宿禰(たけしうちのすくね)の身代りになって死んだ 壱岐直真根子( いきのあたいまねこ)の記事がみえますが、真根子を祀り、「 生(いき)の松原」の地名の由来となったという壱岐(生)神社(写真1)がいつ創建されたかは判然としません。また、もう一つの地名の由来といわれる 神功皇后 ( じんぐうこうごう ) が戦勝祈願のために植えた 逆松 ( さかさまつ ) ( 生松(いきまつ) ) も伝承の域を出ませんが、 生の松原の松は 古くから 神木 ( しんぼく ) のように扱われていたものと思われます。 平安時代以来、「生き」を「行き」に掛け、九州に下向する送別の 和歌に多く 詠まれた生の松原は、 千代(ちよ)松原とともに当時の都人に広く知られた博多湾の 名所となっていました。