平成17年11月22日(火)~平成18年1月22日(日)
2 元寇防塁の築造 -中世
3 復元された元寇防塁 |
再度の蒙古襲来に備えて、鎌倉時代の 建治(けんじ)2(1276)年、当時の海岸線に沿って肥後国(現熊本県)の分担で生の松原の 元寇 防塁(げんこうぼうるい)(石築地(いしついじ)、写真 3)が築かれ、また、 永仁(えいにん)元(1293)年には異国調伏のため、熊野権現(くまのごんげん)(壱岐神社の相殿(あいどの)か)が生の松原に 勧請(かんじょう)されました(写真 2・4)。武者達が防塁に陣取り、緊張した生の松原の様子は、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に活写され、防塁の背後に描かれた松林は防禦の役目を果たしていたと思われます。
室町時代の連歌師宗祇(れんがしそうぎ)や桃山時代の 細川幽斎(ほそかわゆうさい)などは生の松原を見物し、和歌に詠んでいます。生の松原は、当時の文化人にとって一度は訪ねてみたい名所の一つでした。
2 熊野権現の勧請を示す他宝坊願文案 |
4 生松原権現への田地寄進状 ( 青木文書 ) |
3 松の植林・唐津街道の整備 -近世
5 唐津街道沿いに広がる松原 ( 形相図 ) |
江戸時代に入り、 慶長(けいちょう)15(1610)年、初代福岡藩主 黒田長政(くろだながまさ)は、松原の東方の空地に松の植林を命じ、また唐津街道の整備を行いました。 安永(あんえい) 2(1773)年には、6代藩主継高(つぐたか)は壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)の祠(ほこら)の社殿を再建し、翌年には石鳥居を建立するなど、 藩は壱岐神社の保護にも努めました。
街道を通る旅人が松林の間から海辺が見える景色がよい、と 紀行文に書いているように、江戸時代の生の松原は、 松の植林や街道の整備によって、街道沿いの美しい松林(写真5)という景観を保持していました。
4 鉄道の開通・海水浴場 -近・現代
明治42(1909年、旧 唐津街道であった県道福岡唐津線(現市道千代今宿線)が拡幅・改修され、翌年には 北筑軌道(ほくちくきどう)の今川橋(いまがわばし)(現中央区)- 加布里(かふり)(現前原市)間が全通したことで、明治から大正にかけて生の松原の景観は一変していきました。
昭和43(1968)年、さらに平成10(1998)年には埋もれていた 元寇防塁(げんこうぼうるい)が発掘調査され、一部が当時の姿に復元されています(写真 3)。生の松原の松は、マツクイムシによって昭和40年代後半から枯れていきましたが、それでも東区の千代 (ちよ)松原と比べると松林がよく残っており、夏には海水浴場としてにぎわっています。
(林 文 理)