平成18年3月28日(火)~5月28日(日)
「照明=電気」にいたるまで
照明のスイッチをいれることを、しばしば「電気をつける」と言います。これは、照明=電気というイメージがあるからですが、電灯の普及は、ガス灯にだいぶ遅れました。電気を利用して光を得る方法は、19世紀初めには研究が始まっていたのですが、実用に耐えるだけの明るさ・寿命があり、メンテナンスが容易で安価な電灯の開発が簡単ではなかったこと、発電設備の開発も必要であったことが要因です。
東京・銀座で点灯したアーク灯(明治16年 歌川重清) |
最初に実用化にこぎつけたのはアーク灯でした。高電圧をかけた2本の電極の間に電流が流れて光を発するアーク放電を利用した電灯です。非常に明るい光を放つアーク灯は、灯台や広場の街灯など、屋外の広い場所の照明に適していました。明治11年3月25日、中央電信局の開業記念パーティの会場であった虎ノ門の工部大学校(現在の東京大学工学部)で点灯した日本で最初の電灯は、このアーク灯です。日本電気協会は、これを記念して、3月25日を電気記念日としています。
しかし、アーク灯は、あまりに眩しすぎ、2本の電極の距離を長時間最適に保つにも手間のかかる電灯でした。また、アーク灯を安定して点灯させるだけの電力供給にも困難がありました。電灯が普及するためには、室内で使うにもちょうど良い明るさの白熱電球の開発を待たねばなりませんでした。
電球の発明者で思い浮かべるのは、1879年に40時間以上光る炭素フィラメントの電球を発表したエジソンですが、炭素フィラメントは白く明るい光を発するほどの高温には耐えられないため、当時の電球は、現在の25ワット以下の明るさしかありませんでした。より明るく、寿命が長く、効率の良い電球の開発が続けられました。白く明るく光るタングステンフィラメント電球=白熱電球がゼネラル・エレクトリック社から発売されたのは1911年のことです。この電球は、ゾロアスター教の最高神である光の神「アフラ・マズダ」にちなんで「マズダ電球」と名付けられました。19世紀初めから始まった電球用フィラメントの開発は、100年かけてタングステン電球にたどり着いたのです。日本では、東京電気株式会社(東芝の前身の一つ)が、ゼネラル・エレクトリック社と提携し、明治44(1911)年にタングステン電球「マツダランプ」を発売しました。
明治38年につくられた「電車唱歌」では「商家は櫛の歯をならべ ガス燈 電燈夜をてらし 通り三丁 四丁目や つづく中橋広小路」と東京の路面電車の沿線風景にもガス灯とともに電灯が歌われています。大正時代には寿命も千時間近くまで延びた電球は、徐々にオイルランプやガス灯にかわる光源となっていきました。特に、東京では、大正12(1923)年の関東大震災によってガスの配管網が壊滅的な大打撃をうけ、光源としてのガス使用は一気に減りました。
熱源としてのガス
ガスを熱源として使うことが宣伝されるようになるのは、20世紀に入る頃からです。電灯の普及によってガス灯が減ったことや、薪や炭の値上がりなどが、熱源としてのガス利用が注目された要因です。また、衛生面からも、煙や煤のでないガスの火は注目され、台所改良の目玉の一つでした。
徳富蘆花(とくとみろか)の『不如帰』と並ぶ明治時代のベストセラー小説である村井弦斎(むらいげんさい)の『食道楽』(明治36年・1903 報知新聞に連載)には、台所の模範として大隈重信(おおくましげのぶ)邸が取り上げられています。広くて清潔、明るいことなど、さまざまな範とすべき点があげられていますが、台所の設備として最も目をひくのは、中央に据えられた英国製ガスストーブ(西洋式の調理用コンロ)と大きな炊飯用ガス竈です。炭や薪のように燃料を運ぶ手間がいらず、煙もでず、煤で鍋底が汚れることもなく、火加減の調節も簡単で、しかも安価。ガスを燃料とする熱源がいかに優れているかが力説されています。
(太田暁子)
大隈重信邸の台所(「食道楽」の口絵) |