平成18年7月11日(火)~9月10日(日)
黒田長政像 |
はじめに
市民に桜の名所として親しまれている 福岡市西公園。ここに鎮座する光雲 (てるも)神社は福岡藩初代藩主黒田長政(くろだながまさ)と、その父黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))を祀った神社です。今回の展示では、長政の神格化の過程を紹介するとともに、なぜ神として祀られることになったのか、その背景を政治的側面から探り、紹介したいと思います。
黒田光之の編纂事業と長政
黒田長政は元和(げんな)9(1623)年8月4日に亡くなりましたが、彼や父孝高の事績を後世に残すという大きな役割を果たしたのは3代藩主の黒田光之(みつゆき)です。光之は、黒田家伝来の古文書を「御感書(ごかんじょ)」として整理したり、黒田家の正史たる『黒田家譜(くろだかふ)』を 編纂(へんさん)したりしました。ここでは『黒田家譜』の編纂について少し紹介したいと思います。
寛文(かんぶん)11(1671)年10月、光之は 『黒田家譜』の編纂を藩の儒学者であった貝原益軒(かいばらえきけん)に命じます。益軒は翌12年に原稿を書き始め、延宝(えんぽう )6(1678)年に書き終えて光之に献上しています。以後、益軒の希望や光之の指示により2度の改訂が行われ、宝永(ほうえい)元(1704)年に完成しました。編纂にあたって光之は、益軒に「御感書」や諸大名からの書状などを閲覧させています。孝高や長政の事績を正しく後世に残すため、記述内容に正確さを期したからだと考えられます。
さらに光之は、黒田家に伝来した刀剣や甲冑などの武具類を書き上げ、その伝来や由緒を記した『黒田家御重宝故実(くろだけおんじゅうほうこじつ)』と、同じように茶器や絵画などの数寄道具について記した『数寄道具故実(すきどうぐこじつ)』を作成しています。光之は、文字だけでなく、孝高や長政のゆかりの品々と符合させることによって、彼らの事績をより具体的な形で後世に残そうと考えたのです。こうして、光之によって編纂された『黒田家譜』などを通して、長政は後世の人々に記憶されていくことになったのです。
江戸中期の藩政改革と長政
福岡藩の財政は、2代藩主黒田忠之(ただゆき)の時代から慢性的に窮乏していましたが、享保(きょうほう)期(1716~36)には米価の下落傾向が顕著になったため、収入の大半を年貢米の売却代銀が占めていた藩財政は困窮の度合いを深めました。この状況に享保17(1732)年の大飢饉が追い打ちをかけました。この飢饉で当時の福岡藩の全人口約20%にあたる6~7万人が亡くなったといわれています。
このような状況を打開するため藩政改革を行ったのが6代藩主黒田継高(つぐたか)です。継高は、家老吉田栄年(よしだまさとし)を重用し、年貢の緩和などを行い農村部の復興を図った上で、知行制度改革や運上銀制度の確立など抜本的な改革を実施し、飢饉後の藩財政再建を図りました。また、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)期(1751~72)には、一度は藩政の中枢から遠ざけていた家老吉田保年(やすとし)(吉田栄年の息子)を復帰させ、緊縮財政の実施や農村支配体制の見直しを行い、以後の福岡藩政の道筋をつけました。
これらの政策を行う際に継高や保年が持ち出したのが、元和3(1617)年8月に長政が井上之房(いのうえゆきふさ)ら6名の重臣に宛てた「三ヶ条法令(さんかじょうほうれい)」と、長政の遺言と伝えられた「御定則(ごじょうそく)」でした。
「三ヶ条法令」は、家臣に対して贅沢を禁じ、日頃から人馬の備えをして、主君に対し陰日向なく奉公するよう説いたものです。享保12年9月、継高はこの法令の写に、法令の趣旨を守るべき旨の奥書を加えて家老たちに示しました。長政の権威によって家臣たちへ対して、質素倹約と自らへの無私の奉公を促す意図があったと考えられます。
一方の「御定則」は、宝暦11(1761)年7月に家臣の桐山孫兵衛(きりやままごべえ)らから継高へ献上されたもので、内容は藩主の心得を記した遺誡(いかい)と、慶長(けいちょう)17(1612)年から元和8(1622)年の財政収支を記した「財用定則(ざいようじょうそく)」からなり、「財用定則」を守って藩財政を健全に運営し、藩の安全を保つよう藩主と家臣に命じたものです。しかし、近年の研究によって、この「御定則」は長政自身が作成したものではなく、保年もしくは彼に近い人物が偽作し、長政の権威によって藩主継高をも牽制し、藩財政の健全化を強く推し進める 意図をもって献上されたこと が分かっています。
このように改革が行われる中で長政は、施策者たちによって権威を有する存在として強調され、善い政治をおこなった藩主(殿様)として認識されるようになります。このような状況の下、明和5(1768)年8月、継高によって福岡城天守台(てんしゅだい )下に祠堂(しどう)が建てられ、長政は聖照権現(せいしょうごんげん)として祀られることになったのです。