平成18年7月11日(火)~9月10日(日)
聖照権現と領内の人々
安永(あんえい)2(1773)年4月、聖照権現を祀った祠堂に孝高が水鏡(すいきょう)権現として合祀されました。継高以降の歴代藩主は毎月祠堂に代参(だいさん)を派遣しています。また毎年、長政の祥月命日には黒田家の菩提寺である崇福寺(そうふくじ)で法要が営まれ、9月の月命日には祠堂で神事が行われました。主要な年回忌には盛大に神事がおこなわれ、とくに 文政(ぶんせい)5(1822)年の200回忌には神事に加え、福岡城の本丸御殿において能が行われました。能は9月5日、11日、15日の3日間行われ、家臣たちだけでなく、町方では年行司(ねんぎょうじ)や御用聞(ごようきき)など、郡方や浦方では大庄屋(おおじょうや)や庄屋(しょうや)、孝子(こうし)の者などまで拝見が許されていて、その際の記録が残されています。このような行事を通して、武士階層だけではなく藩内の領民に対しても神としての長政の存在が浸透していくことになりました。
おわりに
維新後の 明治(めいじ)4(1870)年8月、廃藩置県(はいはんちけん)によって黒田家は東京に移り住むことになりましたが、 その際、城内の祠堂は、旧黒田家家臣をはじめとする市民から 移転の要望が出され、翌5年に小烏馬場(こがらすばば)の 吉祥院(きっしょういん)跡(現福岡市中央区天神2丁目、警固(けご)神社付近)へ遷され、孝高(よしたか)の法号(龍光院殿)と長政(ながまさ)の法号(興雲院殿)のそれぞれ一字をとって、神社名を光雲(てるも)神社と改めました。さらに同42年4月には福岡市西公園の荒戸山に新たな社殿が完成し遷宮されました。はじめは武士たちの神様であった長政は、武士の時代が終焉を迎えたのちは広く市民に親しまれる神様になったのです。
(髙山英朗)
御能拝見二赤飯御酒被下図(旧稀集より) |