平成18年7月19日(水)~9月10日(日)
「いろは」に込めた決死の覚悟 (秋月藩諸士章・胄・立物図画帳より) |
●旗指物(はたさしもの)とは?
戦国時代から江戸時代にかけて合戦で使用した、軍旗や飾りの作り物のことを総称して「旗指物」と呼びます。
旗の歴史を紐解くと、合戦で使用される以前は主として朝廷や寺院での儀式や神社の祭礼などで用いられていました。そこでの旗の役割は、衆人の注目を集めるため、威儀を正すため、守護神を勧請(かんじょう)して加護を祈るための招代(おぎしろ)、依代(よりしろ)とするため、といったいわゆる「平和的利用」がほとんどでした。これが平安時代末期の源平合戦の頃から、敵味方を区別するための陣具(じんぐ)として用いるようになり、戦国時代には、自軍の勢いを示す威信具、兵の進退を指示する道具といった性格を加えていきました。大将の居所を示す馬印(うまじるし)や奇抜な形の指物(さしもの)が登場してくるのもこの頃のことです。戦況を表す「旗色がいい(悪い)」という言葉や、自らの立場を明らかにする「旗幟(きし)を鮮明にする」といった言葉は、こういった旗指物の役割を今に伝えてくれます。
中白の旗と大馬幟 (黒田二十四騎画帖より) |
●黒田家は「中白(なかしろ)」の旗
福岡藩主となった黒田家が用いた旗は、上下が黒(濃紺・紫)で中央が白の「中白」と呼ばれた至ってシンプルなデザインでした。考案者は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の参謀として活躍した黒田孝高(くろだよしたか)で、先祖の佐々木家の旗や将軍家の旗を参考にして作った、と「黒田家譜(くろだかふ)」には書かれています。当初は6流(ながれ)を作りましたが、領地が加増されるごとに旗の数も増え、豊前(ぶぜん)入国時に倍の12流、筑前入国後には20流になりました。途中で若干の意匠の変更もあり、6流時代に旗の上部に染め抜かれていた「永楽通宝(えいらくつうほう)」の図も、12流時代以降は無くなっています。合戦図や陣立図には、その時期によって、旗の数が描き分けられているので、展示資料の中の旗も数えてみてください。