平成18年7月19日(水)~9月10日(日)
黒田家の旗奉行竹森次貞 (黒田二十四騎画帖より) |
●旗指物を守る
これらの旗を戦場で管理するのは旗奉行(はたぶぎょう)の任務でした。軍の進退の責任を負う重要な役目であったので、勇猛で判断力に優れた戦巧者(いくさこうしゃ)が選ばれました。旗を奪われることは、お家の恥と考えられていたため、彼らは必死で旗を守りました。旗奉行の心得を記した「御旗書(おはたしょ)」(16)には、敵に囲まれ敗戦濃厚の時は、1流を残して旗を焼き尽くし、その残りの旗と共に敵陣に突撃せよ、とあり、職務の責任の重大さが強調されています。
黒田家の場合は、黒田二十四騎の一人、竹森新右衛門次貞(たけもりしんえもんつぐさだ)がこの役を務めています。「黒田家臣伝(くろだかしんでん) 竹森石見伝(たけもりいわみでん)」は、黒田孝高が次貞に対して「汝(なんじ)は敵の機を見る事、天生長ずる所なり」と言って黒田家の旗を任せたという、旗奉行任命のエピソードを紹介しています。戦局を冷静に分析する力が旗奉行には求められたのです。
この次貞が元和(げんな)7(1621)年に亡くなった後は、息子貞幸(さだゆき)が旗奉行となります。貞幸は島原(しまばら)の乱の城攻めの際、真っ先に城内に黒田家の旗を立て、父に負けない活躍をしたと伝えられています。
その後、平和な時代になってからも竹森家は旗奉行を輩出します。福岡城の上ノ橋(かみのはし)と下ノ橋(しものはし)の間にあった竹森家の屋敷には「御旗蔵(おはたぐら)」があり、ここで孝高・長政(ながまさ)が使ったという「軍功(ぐんこう)の旗」を保管していました。藩の重臣達が旗や幟の動きを見物する「庭差(にわさし)」と呼ばれる行事もここで行いました。ちなみに、黒田家の家宝を書き上げた「黒田家御重宝故実(くろだけおんじゅうほうこじつ)」は、この中白の旗を道具類の筆頭に挙げています。黒田家にとって旗は、お家の戦功の証として考えられた、最も象徴的な家宝の一つだったわけです。
関ヶ原にはためく黒田家の中白の旗 12 流(関ヶ原戦陣図屏風より)
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●旗指物の時代の終焉
旗指物の転機は幕末に訪れます。福岡藩では慶応(けいおう)年間(1865~8)の軍制改革により旗指物が大幅に減少させられました。西洋式の軍装の導入や新兵器の登場が従来の戦法を変化させたため、旗指物は必ずしも戦争で必要なものでは無くなってしまったのです。
そうして、人々の記憶から消えていった旗指物ですが、各家々で現在まで大切に保管されてきたものも存在します。今回の展示では、そういった現物資料と、絵画資料、古文書等を通じて、当時の人々が旗指物に込めた思いを紹介します。
(宮野弘樹)
丸建という陣形における旗の配置 (御旗書より) |