平成18年9月12日(火)~11月12日(日)
図1、筥崎宮の筥松と楼門 |
福博(ふくはく)のまちに秋の訪れを告げる放生会(ほうじょうや)。福岡の三大祭りの一つにあげられる筥崎宮(はこざきぐう)のお祭りです。日頃の殺生(せっしょう)を反省し、生きとし生けるものすべての命を慈(いつく)しむとともに、実りの秋を迎えて海の幸・山の幸の豊穣(ほうじょう)を感謝するお祭りです。
1 創建の記憶
福岡市東区箱崎(はこざき)に鎮座(ちんざ)する筥崎宮は、今から約1100年前、延長(えんちょう)元年(923)、八幡神の託宣(たくせん)により穂波(ほなみ)郡の大分(だいぶ)八幡宮(現飯塚市大分)から遷座(せんざ)されたと伝えられています。平安時代後期の大江匡房(おおえのまさふさ)が著した「筥崎宮記」によると、「北は巨海に臨み、西は絶域に向かい、異国の来寇(らいこう)を防がんがため、跡を此の地に垂(た)れ、潮汐の声、常に宮中に満ち、坤艮(ひつじさるうしとら)三十余里、乾巽(いぬいたつみ)七八許里、敢えて他木無し、ただ青松のみ」と、遷座の理由と当時の景観が述べられています。創建当時、対外的な危機感に加え、海外との貿易の推進が創建の背景にあったようです。遣唐使(けんとうし)の廃止後、大宰府(だざいふ)が対外貿易を直接取り仕切るようになりましたが、大宰府の役人が創建に関与しています。
境内(けいだい)の筥松(はこまつ)は、しるしの松と呼ばれ、筥崎(箱崎)の地名の由来となっています。ここは、戒定慧(かいじょうえ)の三学の筥、あるいは、応神(おうじん)天皇(八幡神)の胞衣(えな)を収めた筥を埋め、その目印に松を植えたとされる聖なる地でした。
2 筥崎宮と蒙古襲来
鎌倉(かまくら)時代の中頃、蒙古(もうこ)の大軍が博多湾(はかたわん)に押し寄せました(蒙古襲来(もうこしゅうらい)、文永(ぶんえい)の役(えき)・弘安(こうあん)の役)。戦いに参加した肥後国御家人竹崎季長(ひごのくにごけにんたけざきすえなが)が描かせた「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」は合戦の様子をビジュアルに伝えてくれます。この冒頭に筥崎宮の社頭が描かれています。日本の前線基地が箱崎津(はこざきのつ)に置かれ、季長はここから蒙古軍を目指し出撃しました。文永の役の翌年建治(けんじ)元年(1275)、筥崎宮が再建されるにあたり亀山上皇(かめやまじょうこう)は「敵国降伏(てきこくこうふく)」の御宸翰(ごしんかん)を筥崎宮に下賜(かし)しました。楼門(ろうもん)に掲げられた「敵国降伏」の大きな額は、文禄(ぶんろく)3年(1594)小早川隆景(こばやかわたかかげ)が楼門を再建する際、神宝の御宸翰の一枚を拡大して彫刻したものです(現在は平成の大修理で新調された額が掛かっています)。
3 復興と造営
室町(むろまち)時代の境内の様子を描いた社頭図を見ると、本殿や筥松の他、今では失われた一切経蔵(いっさいきょうぞう)・宝蔵(ほうぞう)・御供屋(ごくや)・多宝塔(たほうとう)など、多くの堂舎が描かれ往時を偲ばせます。現在の社殿は、本殿・拝殿が天文(てんぶん)15年(1546)に大内義隆(おおうちよしたか)により、楼門は文禄(ぶんろく)3年(1594)に小早川隆景(こばやかわたかかげ)により再建されたものです。ともに国の重要文化財に指定されています。造営のたびに作られた棟札(むなふだ)や瓦に刻まれた銘文が、罹災(りさい)と復興を繰り返しながら現在に至った歴史を物語ります。
図2、神幸図 |