平成18年9月12日(火)~11月12日(日)
4 箱崎と博多
江戸時代、福岡のまちは博多と福岡の双子(ふたご)都市と評されますが、城下町福岡が建設される以前、古代・中世においては箱崎と博多がまちの中核となっていました。箱崎と博多は密接なつながりがありました。「福岡図巻」には、放生会に際し松原で行われる宴会「幕出(まくだ)し」に、博多から船で乗り付ける人々を描いています。よく知られた博多祇園山笠(ぎおんやまかさ)では箱崎の浜で御汐井取(おしおいと)りが行われますように、箱崎と博多との関わりは深いのです。室町時代の康正(こうしょう)2年(1456)11月、当時、博多を治めていた大内氏が出した禁制(きんぜい)では、御神木である筥崎の松を門松(かどまつ)や祇園会(ぎおんえ)の作物といって勝手に伐り採る輩が横行しているので改めて伐採を禁じています。室町時代の博多商人を代表する奥堂(おくのどう)氏は筥崎宮油座神人(あぶらざじにん)として、筥崎宮の保護を受けて油の売買を行う特権商人でした。奥堂氏の博多の屋敷は筥崎宮領に属していました。また、江戸時代の終わり、博多には103の町がありましたが、24町が筥崎宮を氏神としていました。
図3、筥崎八幡宮縁起 下巻(室町期社頭図) |
5 八幡神への祈り
筥崎宮には様々な宝物が大切に伝えられています。戦国時代、大内義隆はたびたび寄進状を出し、太刀(たち)や馬を奉納しました。筑前国を治めた大内氏は代々税を免除したり、社殿の造営を行うなど、筥崎宮の保護に努めました。時代は遡り、平安時代末には仁王経(にんのうきょう)を刻んだ瓦経(がきょう)が境内に埋納されています。これらは筥崎宮に対する篤(あつ)い信仰心の表れだといえます。
この展覧会では、筥崎宮にゆかりの絵画・工芸品・書跡・古文書等の宝物を通して、筥崎宮の歴史を紹介します。
(堀本一繁)