平成18年11月14日(火)~平成19年1月21日(日)
亀山上皇像と日蓮上人像
福岡市 内の記念碑といえば、まず東公園( 福岡市博多区 )にある亀山上皇(かめやまじょうこう)像(福岡県指定有形文化財)と日蓮上人(にちれんしょうにん)像( 福岡市 指定有形文化財)をあげることができます。明治37(1904)年に完成してから昭和戦前期まで、この二つの像は、福岡・博多の絵はがきには必ず登場する「名所」でもありました。
亀山上皇像と日蓮上人像は、元寇にちなんだ記念碑です。明治21年から元寇記念碑建設のための義捐金(ぎえんきん)募集運動が始まりました。東京や大阪にも事務所を置くなど、その運動は全国規模で展開しました。明治20年代から30年代の対外的な緊張が高まるなかで、「元寇記念碑」建設の気運が高まっていったのです。義捐金募集運動はちょうど日清戦争前に始まり、日露戦争のさなかに記念碑が完成しました。運動が展開するなかで、元寇を題材にした錦絵が描かれ、 また、元寇に関連した史料を集めた史料集『伏敵編』も編纂されました。
元寇記念碑の建設は、明治23年に許可がおり、場所は千代松原(福岡市博多区東公園)に決まりました。さっそく、「福岡城ノ外廓堡壘ノ廢趾」の石をつかって記念碑の基礎工事がはじまりました。ところで、義捐金募集広告を見ると、記念碑の完成予定図に、高い柱状の記念碑の頂上に騎馬武者が描かれています。しかし、明治32年には、意匠は元寇当時の上皇である亀山上皇像と決定し、福岡出身の彫刻家・山崎朝雲が模型の製作に取りかかりました。
元寇記念碑建設運動に共感した日蓮宗の佐野前励(さのぜんれい)が、さまざまな法難に遭いながらも元寇を予言し、活躍していた宗祖・日蓮の銅像建立を思い立ちました。日蓮上人像の製作には、東京美術学校(現・東京芸術大学)の教授陣らがあたりました。日蓮上人像は、分割して鋳造したパーツをボルト・ナットで結合する、当時としては先進的な工法で建造されました。
東公園の亀山上皇像(大正時代~昭和前期) |
東公園の記念碑
昭和4(1929)年に発行された『福岡県碑誌 筑前之部』という書籍があります。当時、筑前(福岡県北西部)各地にあった石碑の集成で、 540余の石碑が掲載されています。そのうち、東公園にある石碑として、24基が紹介されています。東公園にじつに多くの石碑が建ちならんでいたことが分かります。ただし、当時は、福岡県庁が移転(1981)する前なので、東公園は今より広く、また、福岡県内の招魂社(しょうこんしゃ)が統合されて護国神社(福岡市中央区六本松)ができる(1943)前なので、公園内には明治元(1868)年創建の招魂社がありました。
東公園は、明治9年頃に「東松原公園」として開園しました。公園の開園より早く、明治元年11月には、旧福岡藩主によって妙見(みょうけん)(福岡市博多区千代)と馬出(まいだし)(福岡市東区馬出)に招魂社が創建されています。明治13年には、招魂社の整備と石碑建立のために献金が呼びかけられています。これらは、幕末維新期に活躍した福岡出身の人々の慰霊のための施設です。果たして、この石碑建立の動きが結実したかどうかは定かではありませんが、現在も、東公園内の「官祭妙見・馬出招魂社遺跡保存地」には、両招魂社にあった石碑のうち3基が残されています。東公園に多くの碑が建てられたのは、招魂社があったことが影響しているようです。戊辰(ぼしん)戦争、西南戦争などの戦死者、また、殉職した警察官を祀る招魂場があり、多くの碑が建っていたようです。しかし、『福岡県碑誌』に掲載された石碑の多くは、県庁移転にともなう公園整備で、東公園から姿を消しました。
(太田暁子)
東公園の日蓮上人像(大正時代~昭和前期) |