平成19年1月23日(火)~平成19年4月8日(日)
はじめに
「弥生」という言葉に草木の芽吹きをイメージする方は多いかと思います。弥生時代は縄文時代に続き、古墳時代に先立つ時代です。そして、縄文時代は縄文土器を使っていた時代、古墳時代は古墳を造った時代とされます。では、弥生時代はどんな時代なのでしょう。時代に付けられた「弥生」という名称は、言葉の響きにある新たな時代を想像させるような意味で付けられたのではありませんでした。
1884(明治17)年に東京都弥生町遺跡で縄文土器と異なる一つの壷が発見されます。この土器はその地名にちなんで、「弥生式土器」と呼ばれるようになり、その後、その土器の使われた時代の文化に関心が注がれるようになります。1916(大正5)年、板付遺跡での甕棺と銅鉾、銅剣の発見を契機として、中山平次郎は「弥生式土器」の時代は縄文時代と古墳時代の「中間期間」にあたる「金石併用」の時代であると提唱します。さらに、中山は八女市岩崎や福岡市竹下での炭化米の発見から、その時代に稲作農耕が行われていた可能性を指摘します。そして、1930年代から40年代にかけて、「弥生式土器」の時代と農耕との関わりは山内清男、森本六爾、小林行雄らの研究者により研究が進められ、やがて、「弥生式土器」の時代=「弥生時代」は水稲が行われた農耕社会の時代と認識されるようになりました。
1951年~1954年に行われた板付遺跡の発掘調査で縄文時代晩期の「夜臼式(ゆうすしき)土器」に伴って発見された弥生土器が「板付Ⅰ式土器」と呼ばれ、最古の弥生土器として認定されました。また、その土器に伴って、炭化米や籾圧痕(もみあっこん)の付いた土器、大陸系磨製石器が出土したことで稲作農耕の始まりの時期やその源流が大陸に求められることが分かりました。つまり、最古の弥生土器の発見により、弥生時代の始まりの時期が決まったわけです。しかし、一方で土器による区分ではなく、稲作やそれに関わる文化の存在から時代を定義しようとする考え方が出されます。それは、弥生時代は「水稲農耕」を基本とする時代として捉え、「食料採取」が基本であったとする縄文時代と区別するというものでした。
ところが、1978年に板付遺跡で縄文時代晩期に位置付けられる夜臼式土器の時期の水田、木製農具、石包丁等が発見されます。出土した土器から見ると、板付遺跡の水田は縄文時代ということになります。しかし、その水田の灌漑施設や使用された農具などは完成されたものであり、後の時代の水稲農耕に継承されていくものでした。そして、このような遺跡が各地で発見されるようになると、弥生時代の定義が再び、見直されることになりました。つまり、板付遺跡などで見られるような文化は縄文時代とは区分して「弥生時代早期」という時代に位置づけ、弥生社会の発展過程の中で水稲農耕の需要という画期を考えようとしました。一方で、それまでの縄文時代の生業とも関連して、なぜ水稲農耕は始まったか、その担い手は誰かなど、弥生時代はいかに始まったかが問われることになりました。
最古の弥生土器 |