平成19年1月23日(火)~平成19年4月8日(日)
縄文から弥生へ
弥生時代が水稲農耕の時代とすると、縄文時代は一般に狩猟・採集の時代と言われます。そのことを示すように縄文時代には狩猟や獲物の加工に用いた石器、獣骨や魚貝類、木の実などが多く見られます。一方で、縄文時代にも少なからず食料植物の栽培も行われており、各地でコメやオオムギ、アワ、ヒエ、マメ類などの種子が見つかっています。縄文時代の約1万年間は気候変動により、大きく環境が変化しました。例えば、縄文時代前期の約6,000年前は温暖化が進み、平均気温で現在より2℃程高く、海岸線も今より内陸にあったとされます。その後は寒冷期と温暖期を推移していたとされます。特に寒冷化による環境変化は人々の生活に多大な影響を与え、植物栽培もその一つと考えられています。縄文時代の植物栽培の問題は日本の農耕の起源を考える上で重要なテーマで、中部日本の縄文中期農耕論、九州の縄文後晩期農耕論など、さまざまな議論がなされてきました。1960年代に提唱された、九州の縄文時代後期から晩期に大陸から伝えられた雑穀の焼畑農耕が行われたという後晩期農耕論は大きな反響を呼びました。その後、後・晩期の栽培植物の種子類や籾痕の付いた土器、イネのプラントオパールの発見など穀類の存在を示す資料が増えてきました。福岡市早良区四箇(しか)遺跡では縄文時代後期の遺物に伴って、オオムギ、ヒエ、アズキ、センナリヒョウタンが出土し、そして、周辺での焼畑の可能性も指摘されています。このように縄文時代後期以降、九州ではこれらの栽培植物の出土例の他、土掘り具とされる打製石斧などの石器類も多くなることから狩猟・採集に加え、植物栽培の比率も高くなってきたと考えられるようになりました。この背景には先に触れたように寒冷化による気候変動も指摘されています。また、これらの外来とされる栽培植物の流入には既に雑穀栽培を行なっていた半島との海を通じた交流が関連していると考えられています。しかし、水田跡が発見されている弥生時代と異なり、縄文時代では水田や畑などの遺構の検出例はなく、それらの種子類や石器類の出土例にも関わらず、水稲耕作以前の農耕については多くの未解決な点があります。
弥生時代の始まり
縄文時代の気候変動は縄文時代後期の約3,500年前頃から寒冷化に向かいます。それに伴い、植生の変化の他、地形は海岸線が後退し、沿岸部には砂丘が形成されました。そして、その背後には湿地が産み出されることになり、そこに上流から土砂が流れ込み、海岸部に沖積平野が広がっていくことになります。玄界灘沿岸の砂丘には弥生時代の始まりの頃の遺跡が多く見られます。つまり、このころには寒冷化による砂丘の形成が収まり、安定したことを示すものです。また、海岸部に広がる沖積平野にも遺跡が見られるようになり、そのような地形環境に水稲耕作が行なわれるようになります。このことも寒冷化による食料確保と目的が考えられていますが、それ以前のものとは異なっていたのは、そこには高度な技術とさまざまな文化が伴っていたということでした。
弥生文化の諸要素を見ると、中国や朝鮮半島などに起源をもつものがあります。これらは弥生時代の始まりから揃っていたわけではなく、それ以前や以後に伝わったものもあります。その中で弥生時代の始まりの頃に見られるものには朝鮮半島に起源をもつものが多く見られます。しばしば、縄文時代と弥生時代の人の顔つきの違いが指摘されますが、これらを伝えた人々のいたことを示すものです。このように伝えられた水稲農耕をはじめとした技術、文化により、弥生時代は大きな画期を迎えましたが、人々の生活、文化がすべて変わったわけではありませんでした。弥生時代は縄文文化から受け継がれたものに加え、水稲農耕を初めとした大陸からもたらされたもの、そして、それらを融合することによって新たな文化が生み出されたのでした。
素焼きの土器は縄文時代から使われる日用必需品です。水稲農耕が始まった頃作られていた夜臼式土器には煮炊きや盛付けに用いた深鉢、浅鉢といった器種があります。これは基本的にはそれ以前の縄文時代の後期から晩期にかけて見られる器種構成でした。しかし、夜臼式土器にはその構成に貯蔵用の壺が加わります。表面を磨き、赤色の顔料で飾る壺は朝鮮半島の無文土器に起源をもつものとされます。壺の出現はモミの貯蔵などという用途を想像することができます。また、壺の出現以後、次第に浅鉢は少なくなり、土器における壺の占める割合が高くなります。木の実のアク抜きにも使用されたと考えられる浅鉢の減少は食物の変化を意味しています。一方、深鉢は器形や粘土の積み上げ方、表面の調整方法に変化が見られるなど、水稲農耕による生活様式の変化は土器から窺うことができます。
弥生時代に受け継がれた道具には狩猟用の石鏃、木の実を磨り潰す磨石、貝輪などがあります。一方で石棒、土偶等の祭祀遺物は見られなくなります。従来の打製の土掘り具や加工用の石器も使用されますが、次第に少なくなっていきます。弥生時代の道具には縄文時代になかったものが多くあります。まず、水稲農耕に伴う木製農具や磨製の加工用の工具類です。次に朝鮮半島にも多く見られる磨製石剣や磨製石鏃です。これらは墓に副葬される例も多く見られますが、集落からも出土します。これらの石器は武器でもあり、水稲農耕に伴って始まったとされる争いとの関連が指摘されています。
弥生時代の始まりの頃の墓として、支石墓が上げられます。中国や朝鮮半島に起源をもつ支石墓(しせきぼ)は国内では長崎県、佐賀県、福岡県の西部で見られます。支石墓の周囲には壺形土器を棺と用いた小児墓が見られます。土器を用いた埋葬方法は縄文時代にもありますが、北部九州の弥生時代に特徴的に見られる甕棺墓はそれらが起源と考えられています。大型の壷形土器を用いた埋葬は小児を中心に次第に増えていきます。そして、前期の終わりの頃には成人にも用いられるようになり、吉武高木遺跡のように青銅器を副葬するような甕棺墓も現れます。
おわりに
板付遺跡から始まったとも言える弥生時代は水稲農耕の開始という、日本の歴史においても大きな画期がおこった時代でした。それは縄文時代からの伝統と水稲農耕に伴う新たな文化が交差するものでした。今、弥生時代の始まりは新たな年代観から見直されつつありますが、その画期の解明に関心が注がれています。
(菅波正人)