平成19年4月3日(火)~6月3日(日)
明治10年に福岡で発行された『筑紫新聞』 |
明治時代のはじめ、それまでの権利を奪われたことなどにより、明治政府に対して不満をもった士族(不平士族)たちによる反政府運動が、各地でおきました。明治7(1874)年の佐賀の乱、明治9年の秋月(あきづき)の乱(福岡)、萩(はぎ)の乱(山口)、神風連(じんぷうれん)の乱(熊本)などが有名です。なかでも、今からちょうど 130年まえ、明治10年の西南戦争は、最大にして最後の士族反乱でした。
旧鹿児島藩の士族たちが中心になっておこした西南戦争では、明治維新の立役者の一人でありながら、明治6年以降、政府から退き鹿児島へ帰っていた西郷隆盛(さいごうたかもり)が、旗頭になりました。1月末から9月24日の城山(しろやま)( 鹿児島市 )で西郷が自刃するまで、半年以上に及ぶ内乱は、熊本・宮崎・鹿児島などで展開しました。
西南戦争は、歴史上の出来事ですが、勃発当時の人々にとっても大事件でした。明治に入ってから本格的に発行がはじまった「新聞」が、西南戦争の戦況や噂を伝えました。現在の 福岡市 域で最初に発行された新聞『筑紫新聞』(明治 10 年 3 月~ 7 月発行)も、毎号、多くの紙面を割いて、戦況を伝える記事を掲載しています。また、写真による報道が始まっていなかった当時、伝わってくるニュースを絵にした錦絵が数多く発行されました。
西南戦争を伝えた錦絵
政府が県に連絡をせず、火薬庫から弾薬を運びだそうとしたことに反発した私学校(しがっこう)(西郷隆盛が設立した士族のための教育機関)の生徒らが、陸軍の火薬庫と海軍造船所の火薬庫を襲撃しました。この1月29日夜の火薬庫襲撃事件により、旧鹿児島藩の士族と政府との対立は決定的なものになりました。2月中旬、西郷らは鹿児島を出発、下旬から熊本鎮台のある熊本城を西郷軍が包囲し、いよいよ政府軍との間で戦闘が始まりました。
南下する政府軍主力と北上する西郷軍は、3月4日から20日まで、田原坂(たばるざか)(熊本県植木町)で死闘を繰りひろげました。人員・火力に勝る政府軍が、この田原坂での戦いを制しました。また、政府軍の別働隊が八代(やつしろ)から上陸、熊本を包囲していた西郷軍は、4月15日、熊本城の包囲を解きました。ここに、戦局の大勢はほぼ決しました。
福岡でも、西南戦争に呼応した動きがありました。福岡の変です。3月27日、越智彦四郎(おちひこしろう)、武部小四郎(たけべこしろう)を指揮者とする士族が、福岡県庁(旧福岡城)などを襲撃しましたが、失敗して退却。蜂起に参加した士族は4月6日までに捕縛されました。
その後、西郷軍は、本拠地である鹿児島も政府軍におさえられたため、人吉(ひとよし)、宮崎方面へと転戦しました。7月、都城(みやこのじょう)、宮崎、佐土原(さどわら)(宮崎市)が陥落、さらに8月には延岡(のべおか)も政府軍によって陥落し、 8月17日、西郷は、長井村( 延岡市 )で全軍の解散を表明しました。わずかに残った西郷軍は可愛(えの)岳を突破し、9月1日、鹿児島に突入し、一時城下を支配下におきました。しかし、9月14日早朝から、城山の西郷軍約 300 名に対し、政府軍は総攻撃をかけ、半年以上におよんだ西南戦争は終結しました。
これらの戦況は、東京や大阪でつぎつぎと錦絵になって出版されました。速報性という点では、錦絵は新聞には及びませんが、当時、錦絵は視覚的にニュースを伝えることのできる唯一のメディアだったのです。明治時代に入ってから、安価で強く発色する染料が使われるようになっていました。そのため、西南戦争を伝えた錦絵は、赤や紫などの非常に鮮やかな色彩を用いたものになっています。
山崎年信「城山最期之決戦」 |