平成19年4月3日(火)~6月3日(日)
描かれた登場人物
長崎や横浜では、幕末の文久2(1862)年に写真館が営業をはじめ、博多でも明治7(1874)年に写真館が開業しています。とはいうものの、もちろん誰もが写真を撮る時代ではありません。有名人の名刺サイズの写真が商品として流通することはありましたが、西郷隆盛のように写真を嫌い、一度も自分の写真を撮らせなかった人もいます。現在のように有名人の顔写真をすぐに手配できるわけではないので、錦絵を描いた絵師たちは、必ずしも描く人物の顔を知っていたわけではないのです。のちに流布した西南戦争に関わった人々の肖像写真と比べると、当時の錦絵の登場人物の顔は、写実的に描かれていたわけではないことが分かります。
長谷川貞信(二代)「九州暴徒勇士揃」 |
西南戦争のスクラップ
西南戦争を描いた錦絵は、当時、いくらで買うことができたのでしょう。大判の和紙(約39センチ×26.5センチ、B4より少し大きい)3枚続きの錦絵のなかに、「六銭」と定価がすり込まれているものがあります。また、大判一枚ものでは2銭5厘、大判二枚もので4銭というのが定価だったようです。西南戦争の錦絵は、大判三枚続きがもっとも多いサイズだったようです。当時の物価は、東京の有名店で、うな重が20銭、お汁粉が 3 銭程度でした。当時の新聞は、明治10年に福岡で発行された『筑紫新聞』は一部3銭、明治12年創刊の朝日新聞は一部1銭、1ヶ月の購読料は18銭だったそうです。
現在まで残っている錦絵の数から、絵師たちが凄まじいペースで新作を描き、版元がつぎつぎと出版していった、当時のようすを想像することができます。錦絵を買い求めた人のなかには、何枚も合わせて画集のようにまとめて、大切にしていた人もいたようです。また、西南戦争終結後に、戦闘のようすや戦場でのエピソードをまとめた錦絵も出版されました。
(太田暁子)
四代国政「薩摩国全図」 四代国政「肥後熊本戦地之図」 |