平成19年4月17日(火)~7月16日(月・祝)
弥生時代前期の壺(比恵遺跡出土) |
はじめに
弥生時代は大陸よりもたらされた水稲農耕をはじめとした技術、文化により、大きな画期を迎えました。しかし、人々の生活、文化がすべて変わったわけではありませんでした。弥生時代は縄文文化から受け継がれたものに加え、大陸からもたらされたもの、そして、それらが融合されて新たな文化が生み出されたのでした。そのような弥生文化の象徴と言えるものが弥生土器です。弥生土器は縄文土器と同様の素焼きの土器です。一方で、弥生土器は水稲農耕の始まりにより変化した人々の生活に応じた形、用途が見られるようになります。特に縄文時代にはあまり見られなかった壷はその代表と言えます。壷にはその形に加え、そこに飾られた文様、貯蔵という用途など、弥生時代の生活、文化が映し出されています。
かつて、弥生時代は弥生土器の時代とも言われましたが、今回の展示では弥生土器の壷を通じて、弥生時代とその文化を紹介していきたいと思います。
板付Ⅰ式土器の組み合わせ |
弥生土器とは
1884(明治17)年、当時、東京にあった 弥生町 で、縄文土器と異なる一つの壷が発見されます。その後、この土器はその地名にちなんで、「弥生式土器」と呼ばれるようになり、その土器の使われた時代の文化に関心が注がれるようになります。特に農耕との関わりに関心が持たれ、「弥生式土器」の時代=「弥生時代」は水稲が行われた農耕社会の時代と認識されるようになります。一方で、水稲農耕に関わる弥生土器の起源にも注目されるようになり、福岡県の遠賀川の川床で発見された土器は、九州から近畿地方に至る地域で見られる古式の弥生土器の特徴を持つことから、それらを「遠賀川式土器(おんががわしきどき)」と総称し、弥生時代前期の土器として考えられるようになります。そして、各地の遠賀川式土器が出土する遺跡を調査する中で、1951年~1954年に行われた板付遺跡の発掘調査において、縄文時代晩期の「夜臼式土器(ゆうすしきどき)」に伴って発見された「板付Ⅰ式土器(いたづけいちしきどき)」と呼ばれる土器が、最古の弥生土器として認定されることになります。
その後、板付Ⅰ式土器より古い時代の水稲農耕とそれに伴う技術、文化などが確認されたこともあり、弥生時代は土器ではなく、水稲農耕の存在で始まりとしようする考え方が主流となりました。しかし、西日本各地の水稲農耕の広がりを見ると、遠賀川式土器と呼ばれた土器の頃であり、その意味で起源となった板付Ⅰ式土器は弥生文化の成立を考える上で重要なものと言えます。
板付Ⅰ式土器とは
板付Ⅰ式土器は縄文土器と同様の素焼きの土器で、その形態には煮炊き用の甕、貯蔵用の壷、盛り付け用の鉢や高坏などがあります。水稲農耕が始まった頃作られていた夜臼式土器には、それ以前の縄文時代の後期から晩期にかけて見られた、煮炊きや盛付けに用いた深鉢、浅鉢といった器種に、新たに貯蔵用の壺が加わります。丸底の丸い体部に、口が窄(すぼ)まる形で、表面を磨き、赤色の顔料で飾る壺は朝鮮半島の無文土器に起源をもつものとされます。板付式土器と形態を比べると、外見は似通っているように見えます。しかし、板付Ⅰ式土器の壷では円盤状の粘土を貼りつけた平らな底部で、口縁に粘土を貼りつけた段がつきます。そして、有軸羽状文(ゆうじくうじょうもん)や山形文(やまがたもん)の彩文(さいもん)を施す等、器形、文様構成に差が見られます。また、壷に留まらず、甕や鉢といった器種においても共通点、相違点があり、このことは板付Ⅰ式土器の成立を考える上で重要な点です。それでは、壷に見られる「貯える」、「彩(いろど)る」、「供える」という三つの要素を通じて、夜臼式土器との共通点、相違点を見てみましょう。