平成19年4月17日(火)~7月16日(月・祝)
貯える
水稲農耕の始まりとともに出現した壺の用途にはモミの貯蔵等を想像することができます。そして、その大きさには小型(20㎝前後)、中型(30㎝程度)、大型(40㎝以上)のものがあり、それぞれの用途に合わせて作られていることがわかります。板付遺跡の環濠(かんごう)の内側には多くの貯蔵穴が見つかっており、これらの壷に収めて、穴倉に貯蔵していたと考えられます。また、壺の出現以後、次第に浅鉢は少なくなり、土器における壺の占める割合が高くなります。浅鉢は木の実のアク抜きにも使用されたと考えられるもので、その減少は食物の変化を意味し、水稲農耕による生活様式の変化はこのようなことから窺うことができます。
彩文を施した壺(雀居遺跡出土) |
彩る
北部九州の弥生土器は文様がなく、均整の取れた形がイメージされますが、弥生時代前期の壷には文様がつけられたものが多くあります。壷が使われ始めた夜臼式土器には赤彩(せきさい)したものはあるものの、文様をつけたものはあまりありません。板付Ⅰ式土器に見られる文様は有軸羽状文や山形文等を赤い顔料で描く、彩文が代表されます。朝鮮半島の壷にはこのような文様がなく、その起源は明らかではありませんが、縄文土器にも見られる文様もあることから、それらを取り入れたものもあると考えられます。彩文は次第にヘラや二枚貝を使った、文様に変わっていきますが、基本的な文様構成は踏襲(とうしゅう)されます。これらの文様は横から見た時だけではなく、上から見たときも認識することができます。壷は当初、器形、文様も共通性が見られますが、次第に地域差が見られるようになります。例えば、北九州から山口県にかけての地域ではいくつかの文様を組み合わせることにより、より装飾性が増したものも多く見られます。その意味で壷の文様はその地域のアイデンティティーを表現しているのかもしれません。
供献小壺(下月隈天神森遺跡出土) |
供える
夜臼式土器の頃の支石墓や木棺墓、甕棺墓には小型壷が供献される例がしばしば見られます。小型壷の供献は板付Ⅰ式土器以降も木棺墓や甕棺墓で見られます。壷に何を入れたかは分かりませんが、死者に壷を供える風習は吉武高木遺跡の頃の弥生時代中期初頭まで続きます。北部九州で特徴的に見られる甕棺墓は夜臼式土器の大型壷に起源をもつとされます。先に見たように人々にとって、モミを貯蔵する壷を飾ることは、稲作に対する思いや地域のつながりを表現するものと考えられます。そして、その壷を死者に供え、あるいは大型壷に遺体を納めることは当時の社会において、大きな変化があったことを意味しています。
おわりに
水稲農耕と共に始まった弥生時代ですが、弥生土器は縄文文化と大陸文化が融合して成立した弥生文化を象徴するものです。今回、壷を通じて、いち早く弥生時代が始まった、北部九州での社会の変化を見てきました。ここで触れたように壷にはそのことを色濃く映し出していると考えられます。板付Ⅰ式土器以降ではそれは西日本各地へ広がります。その意味で、板付Ⅰ式土器の存在は弥生文化の成立を考える上で、重要なものと言えます。
(菅波正人)