平成19年6月5日(火)~7月29日(日)
明治維新と山笠
博多祇園山笠の歴史は、一説には鎌倉時代までさかのぼるといいます。戦国時代に焼け野原になった博多を豊臣秀吉(とよとみひでよし)が復興した「太閤町割(たいこうまちわ)り」に起源をもつ、博多の町を数町ずつグループにした「流(ながれ)」が、山笠行事の組織の基本になっています。明治維新という大改革があったとはいえ、明治元(1868)年から5年までは、博多祇園山笠はほぼ従来どおりに執り行われていました。東町流、呉服町流、洲崎(大黒)流、魚町(福神)流、西町流、土居流、石堂(恵比須)流(明治元年の順番)の7流が、1番から6番、6本の山笠と能を奉納していました。ところが、明治5年の秋、福岡県の通達で「悪弊少なからず」と、突然、山笠は松囃子とともに禁止されてしまいました。
祇園祭自体は存続し、能の奉納は行われていましたが、山笠奉納は中断することになりました。明治8年に、祭礼の間際に許可がおり、あわてて人形に浴衣を着せただけの簡素な山笠がつくられましたが、翌年からは再び禁止されてしまいました。許可のないまま山笠の台を舁(か)く ( 山笠を担いでまわる ) こともありましたが、明治 16年になって、やっと山笠奉納が正式に復活しました。
改暦と山笠
日本では、明治6年1月1日から太陽暦が使われるようになりました。明治5年12月 3日=明治6年1月1日という改暦は、それまでいわゆる旧暦で暮らしてきた人々に、さまざまな面で混乱をもたらしました。中でも、祭りなどの年中行事は、最もその期日が混乱したものの一つでしょう。太陽暦採用の結果、1ヶ月遅れで年中行事を行うようになった例もあります。ひな祭りを4月にしたり、七夕やお盆の行事を8月にするのが、その例です。
博多祇園山笠も改暦のために月遅れになった年中行事の一つです。改暦以前は、追い山は旧暦6月15日の行事でした。明治6年以降、新暦6月にしたり、旧暦6月にしたりと試行錯誤がくり返されましたが、明治43年からは、現在のように新暦7月 15日に追い山を行うようになりました。
写真(1) 最古かもしれない山笠写真 明治5(1872)年以前の山笠 標題「橋弁慶」 |
最古かもしれない山笠写真
後述のように、中断後に復活した山笠の高さは低くなっていました。明治5(1872)年までが最も背が高い山笠でした。その高さは16メートルに及んだといいます。その頃の写真として、明治 4年の一番山笠のものが知られています。博物館には、それとは違う明治5年以前と考えられる写真(写真(1))があります。
高さから、明治5年以前か明治20年代後半と分かります。ただし、明治20年代後半の山笠(写真(3))は、横幅が広くふっくらとしたシルエットなので、明治5年以前の可能性が高いと考えられます。また、山笠のまえにいる人たちは、法被を着ていません。明治20年代の写真では、法被を着用しています。そして、「橋弁慶」という標題が掲げられています。『博多祇園山笠史談』によると、この標題は明治3年の1番山笠のものと一致します。以上のことから、明治3年の写真である可能性が高いと考えられます。もしも、この写真が明治3年のものであるとなると、これは最古の山笠写真ということになります。
ただし、博物館の写真は、元の写真を複写したものです。残念ながら、原板の所在は分かりません。