平成19年6月5日(火)~7月29日(日)
電線と山笠
明治時代に入ると、全国に電信や電灯のための電線がはられるようになりました。また、路面電車のための電線が架設された都市もありました。福岡・博多では、明治6(1873)年に電信局が置かれました。明治30年には電灯がともり、明治32年に電話交換局が開業しました。そして、明治43年には、路面電車が開通しました。
高さのある山車(だし)を引きまわす祭りでは、電線は巡行の障害になります。東京の神田(かんだ)祭も、明治時代中期、電線の架設によって、山車を引き回すことができなくなり、その後、神輿(みこし)が中心の祭りになっていったそうです。京都の祇園祭では、巡行の際、一時的に電線を切りながら山鉾を引きまわしていた時期もあったそうです。他にも、電線に接触しないように山車を小さくするなどの変化を余儀なくされた祭りが全国にあります。
博多祇園山笠は、電線のために山笠の高さを低くした祭りの一つです。明治時代はじめの中断ののち、明治16年に本格的な山笠の奉納が復活しても、市内にはられた電信用の電線のために、中断前のような背の高い山笠をたてることはできませんでした(写真(2))。しかし、博多の人々は関係各所にはたらきかけ、明治25年、電線の高さを高くすることに成功します(写真(3))。とはいうものの、電灯や電話のための電線が架設されると、従来のように背の高い山笠を動かすのは難しくなりました(写真(4))。架線の高さを調査して、山笠の高さを制限することもしましたが、電柱に接触したり電線を切ってしまう事故もあったようです。そして、春に路面電車が開通した明治43年には、ついに追い山を行うことができなくなってしまいました。路面電車の架線は避けようもなく、動かさない「飾り山」と舁きまわる「舁き山」への分化を決定的なものにしました。
写真(2) 明治23(1890)年 |
写真(3) 明治26(1893)年 |
写真(4) 明治41(1908)年頃 |
写真(51) 昭和21(1946)年5月の復興祭 |
戦後の山笠
昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲で、博多の町は大きな被害をうけました。しかし、早くも昭和21年5月には、復興祭で子供山笠が博多の町を走りました(写真(5))。そして、昭和23年、山笠の奉納が復活しました。翌24年には博多祇園山笠振興期成会が誕生し、昭和30年発足の博多祇園山笠振興会へと発展していきました。
戦後は、新しい流が加わるなど、山笠の数も増減しました。また、町界町名整理が実施され、昭和41年には、流が再編されるなど、博多祇園山笠も時代とともに変化してきました。昭和54年、「博多祇園山笠行事」は国の重要無形民俗文化財に指定され、現在では、期間中に延べ300万人もの人が訪れる祭りとなっています。
(太田暁子)