平成19年11月20日(火)~平成20年1月20日(日)
授かりもの
縁起物 |
人の一生には、様々なお祝い事があります。女児の初正月では、「餅花(もちばな)」「繭玉(まゆだま)」という「つくりもの」が飾られます。「水」を象徴する柳の木に紅白の餅や最中(もなか)、その他に鯛や小判などのつくりものを付けて、豊かに実った枝を表現するのです。これは、「授かりもの」である子孫繁栄を象徴しています。男児には、働く力と社会的地位の象徴として、藁馬が贈られます。
旧暦正月には、農業に係わる行事があります。長崎県対馬では、稲と麦の豊作を願って、たわわに実った稲穂と麦穂を表現した「つくりもの」を田に飾ります。まだ植え付けもしていないときのことですから、来るべき豊作を形にした祈りです。
子孫繁栄、豊作、豊漁はいずれも人々にとって「富」と呼べる生活にかかせないものです。それを丸ごとすべて掻き取ろうとするのが、縁起物です。半箕(はんみ)や熊手(くまで)のなかにあるものは様々の「富」になります。「授かりもの」を形にする「つくりもの」は行事が終わると壊してしまいます。残しても一時のことです。これは、私達の先祖に、「神」は年の初めに人里にやってきて、また戻っていくという、思いがあったからだと思われます。壊すことが神送りだったのです。
「つくりもの」の「つくりもの」
「つくりもの」には、「種々の人や物などの形を作り飾った、祭礼などの時の出し物。趣向をこらした、人形や物を配置した見せもの。」という意味もありました。博多祇園山笠はその代表で、岩山を背景に人形を配して、歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)の名場面を表現するものです。『九州軍記』の永享4年(1432)には「十二双のつくりものをつくり、上には人形のようなものを据えて、これを舁(か)いて歩行した」とあり、山笠のことを「つくりもの」と呼んでいたことが分かります。
山笠の飾りには、頂上から台まで、必ず道が通されています。誰が通る道なのでしょうか。これは「山」という言葉と深い関係があります。私達の先祖は、「山」は「神」が住まう世界であると観想していました。「神」はその道を通って人里に降りてくると考えていたのでしょう。「神」に見せると同時に、動くことによって人にも見せる、「つくりもの」はそうして発達してきたようです。山笠は現在でも、祭りが終わると同時に完全に壊されて跡形もなくなります。「神」はまた「山」にお帰りになるという民間信仰があるからです。その山笠を屏風に描き、模型にして残すのは、「飾りもの」と同じ考え方になります。
歌舞伎の道具立ても「つくりもの」と呼ばれます。歌舞伎・浄瑠璃などの「見せもの」は「つくりもの」である物語を芝居にして演じるものでした。
こう考えるとい、これらは、「つくりもの」の「つくりもの」ということになるでしょう。
「もの」を見立てる
見立細見 |
「つくりもの」は基本的には「ものの形を模して作った」ものでした。実った稲穂などの現実の形や神の世界である「山」などのように観念の世界の型などでした。その根底にあるものが「見立てる」という作法です。あるものを別の素材で表現するという他に、これには、大自然を凝縮して小さなものにしてしまうことや、久遠の時を瞬間に凝縮するという思考が含まれています。
「見立て」を表現する技法が「細工」です。表現することなくして「つくりもの」は目に見えるものにはなりません。博多旧綱場町(つなばちょう)の商家に飾られた「つくりもの」は「見立細工(みたてざいく)」と呼ばれ、この言葉の意味を正確に現在まで伝えています。
見立てるものは様々でしたが、本質的なことがひとつあります。それは「もの」です。「物」と記すことが多いものですが、観念的には、ものは「霊」と記されます。これは「神」であり、人間の「魂」です。つまり生きる力を表していることになります。「つくりもの」は、私達のくらしを豊かにする強力な力を持った「もの」だったのです。だから、すぐに壊すことが必要だったのではないでしょうか。私はそう考えています。
(福間裕爾)