平成19年12月4日(火)~平成20年2月3日(日)
はじめに―瓦経とは―
平安時代後期になると、末法(まっぽう)思想影響の下経典を後世に伝えるため、盛んに経塚が造営されました。埋納する経典は主に法華経で、 紙に写経された紙本経(しほんきょう)を 筒型容器に入れたものが大半ですが、紙本経は腐れ朽ちやすく発掘されることは希です。 一方で、経典を不朽なものとするために、粘土や銅の板に経文を刻んだものがみられます。粘土板に経を刻み焼き締めたものは、瓦経(がきょう)と呼ばれています。
福岡の瓦経
飯盛山瓦経 天部形像 (大宰府天満宮蔵) |
呪願文・紀年銘 (上:飯盛神社 下:糸島高校蔵) |
結縁衆名(上写真裏面) |
「経塚が多く造営された北部九州では、紙本経を埋納した経塚に比べると、瓦経を埋納した瓦経塚はそれほど多くはありません。しかし、全国的にみると分布の中心の一つといえます。福岡市内では瓦経出土地として、飯盛山(いいもりやま)、愛宕山(あたごやま)、筥崎宮が知られる他、中世の集落や都市遺跡から瓦経片が出土しています。写経の際必要な手本の入手に加え、洗練された書体で経文を刻 むという行為は、高度な文化水準があって初めて可能なものです。
飯盛山出土瓦経
標高382.4mの飯盛山山頂で出土しました。青柳種信編『筑前国続風土記拾遺』早良郡羽根戸村一乗寺薬師堂の項に「薬師堂。薬師森。飯盛山の半腹に在。(中略)又経文を刻める古瓦三片有。地中より掘出せしものなり。」と記され、古くから瓦経が出土することが知られていました。1924年(大正13)山頂にある飯盛神社上宮の雨乞いの祭壇をつくる際に多量に掘り出されています。その時の記録によると、径1m、深さ1.2mの石囲いの穴の中に埋納されていたとあります。出土品はその後全国に散逸しています。
縦23㎝、横19㎝、厚さ1.5㎝前後の粘土板の裏表2面に、罫線をひき10行17字詰めで経文を記す規格をとっています。粘土板に錐のようなもので罫線、文字を線刻し、焼成したものです。文字は非常に達筆です。法華経8巻、無量義経、観普賢経、般若心経、仁王経上下など三百枚近くが確認されています。仁王経の小口に早良鎮守明神飯盛の線刻がみられ、神仏習合の一端を伺うことができます。経文以外に仏画や願文を線刻した瓦板があります。願文の末尾には永久2年( 1114)の奥書と郡司壬生信道ら僧俗十数人の名が記され、造営時期と結縁した人々を知ることができます。瓦経としては 全国で4番目に古い紀年になります。
愛宕山出土瓦経
愛宕山(標高69m余の独立丘)南側、探題城跡北西の崖下で出土しました。高野孤鹿(ころく)によって1954年( 昭和29)から1968年(昭和43)にかけて、瓦経片が採集されています。貝原益軒編『筑前国続風土記』九州探題城址の項に「正保慶安の此までは、城の古瓦多く残れり。其瓦に法華経の文字を焼付て有しかは、人悉く取て、今は其瓦なくなりぬ。」と記されていることから、付近を探査し採集したものです。完存する瓦経はなく、厚さ1.5㎝、縦24㎝に復元され、粘土板の片面に、罫線をひき1行17字詰めで経文を記していますが、1枚あたり何行かは不明です。 法華経、無量義経、観普賢経の30余枚が確認されています。
経文が記されているのが片面のみという点で、飯盛山など大半の例と異なります。紀年銘が刻まれた瓦経が出土していないために造営の時期は不明ですが、規格が飯盛山瓦経に近く経文が片面のみであることから、飯盛山の例にやや先行するものと考えられています。