平成19年12月4日(火)~平成20年2月3日(日)
筥崎宮出土瓦経
1989(平成元)年に筥崎宮境内南西部で工事中に偶然発見されました。筥崎宮は博多湾に面した砂丘に位置します。出土状況は写真が1枚残されているだけですが、瓦経の小口を上にして、14枚と五枚を縦に重ね、2列に並べて埋納されていました。 般若心経、仁王経の36枚が確認されています。 縦23㎝、横18.5㎝、厚さ1.7㎝前後の粘土板の裏表に、罫線をひき10行17字詰めを基本として経文を記しています。 飯盛山瓦経と大きさは同一で、全体の作りや書体などが酷似しており、ほぼ同じ時期のものとみられます。焼成後に、墨で誤字脱字を校正している箇所があります。
福岡市内の出土の瓦経片
飯盛山・愛宕山・筥崎宮の瓦経については出土状況の詳細が明らかではありませんが、まとまった点数が出土していることから、当初から経典を埋納する目的で造営された瓦経塚から出土したとみなすことができるでしょう。
一方で中世の集落や都市遺跡から瓦経片が散発的に出土しています。盗掘された経塚に残された瓦経の断片とみるより、後世に地中から出た瓦経片を後生大切に保管し、埋納もしくは廃棄されたものと思われます。
瓦経の埋納方法
瓦経は表面採集や盗掘によるものがほとんどで、発掘調査で埋納状況が確認されたのは数例しかありません。
佐賀市築山瓦経塚では発掘調査により埋納状態が明らかになりました。 1辺2m前後の平面形が隅丸方形の深さ0.7mの埋納坑の中央に木炭を敷き詰め、その上に瓦経を置き、その周囲に拳大から人頭大の礫を用いた径1m前後の囲いをめぐらせます。中央に法華経を巻ごとに平積みし、周囲は他の経典を縦に重ねて埋納していました。さらに外郭に仏画を線刻した瓦を立てています。仏画や無地の瓦も含め63枚が元位置で確認されました。奥書に天養元年(1144)の紀年銘をもつ瓦経があります。他に、瓦経や石囲いの下から鉄製小刀が出土しています。石囲いは飯盛山においても確認されています。
造営主は? -その背景を探る-
飯盛山瓦経の奥書に早良郡司壬生氏の名がありました。当時の早良郡はどのようだったのでしょうか。 早良平野には方格の条里地割が残されています。条里制の施行、新田開発などの大規模な土木工事は古代律令制度の下、推し進められたものとされてきました。近年、条里地割に沿った水路が多く発掘され、それらのほとんどは造営されたのが平安時代末以降で、奈良時代に遡るものではないことが分かりました。飯盛山瓦経奥書にみえる郡司らは、一連の開発にも関わっていたでしょうが、その結果得られた富を蓄積し、高度な文化を涵養することによって瓦経塚造営が可能となったのでしょう。
瓦経書写の原本には木版印刷の「北宋版大蔵経」が使用されたとされます。 当時博多には大唐街、唐房と呼ばれた宋人居住区があり、博多近辺にあって写経や経塚造営などに多大な援助を行っています。宗像市興聖寺色定法師一筆一切経の奥書、粕屋郡須恵町佐谷観音堂経塚出土経筒の線刻銘、太宰府市観世音寺十一面観音胎内銘には宋人の名が記されています。瓦経塚の造営についても、宋人たちが資金援助の他、経典など漢籍の入手に便宜を尽くすなど、深く関与していたのではないでしょうか。
(佐藤一郎)
*今回の展示にご協力頂いた関係機関ならびに各位に対し、厚くお礼申し上げます。
※写真については太宰府天満宮、九州歴史資料館、飯盛神社、佐賀市教育委員会の提供によるものです。