平成20年1月16日(水)~3月16日(日)
タンカはチベット仏教で用いられる掛け軸形式の宗教画の総称です。そこには様々なほとけたちが描かれ、古くからチベットやネパール、モンゴルなどの仏教寺院で礼拝や宗教儀式の対象となってきました。タンカは日本の仏画に対応するものですが、描かれる内容や表現は大きく異なります。その違いはアジアの文化がもつ多様性を私たちに教えてくれることでしょう。本展示ではこうした視点から、福岡市博物館所蔵のタンカを中心に展示し、その神秘的な世界を紹介します。
1.タンカの歴史
タンカはインドのパタと呼ぶ布絵仏画に起源をもつといわれます。しかし実際にチベットでタンカが成立した詳しい時期は分かっていません。チベットは7世紀前半にはじめて統一されて吐蕃(とばん)王朝が成立し、次第に王室関係者によって周辺の国々から仏像がもたらされ、寺院もつくられていったようです。その後吐蕃王朝は8世紀に最盛期を迎え、シルクロードのオアシス都市敦煌(とんこう)を支配下におきます。実はこの時期に描かれたとみられる仏画が敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)で近代に中央アジアを旅したヨーロッパの探検隊によって発見されています。この敦煌仏画の中には後のタンカにつながる内容をもつものが含まれ、これらがその源流のひとつではないかと考えられています。
なお、タンカは語源的には「巻き上げられるもの」や「広場」を指すといわれますが、敦煌で軸装の仏画を「(とう)」あるいは「(とうが)」と呼んでおり、「(とう)」が当時の中国で Dang と発音されていたからという説もあります。
2.タンカの制作と形式
タンカの表装/9 龍を教化する祖師 |
タンカの制作は厳しい作法と高い技術が要求されるため、専門の画工によっておこなわれます。工程はまず綿などの画布(がふ)を木枠に固定してキャンバスとし、白土(はくど)を膠(にかわ)で溶いたものを塗って下地をつくります。下地が乾いたら次に下絵を描きます。その際、尊像の各部の比例は厳密に決められていて補助線を引きながら慎重に進めなければなりません。そして岩絵具で鮮やかな彩色が施され、再び輪郭線を描き起こし、最後に瞳を描き入れます。
こうして完成した作品は表装が施されますが、画布の周囲は赤と黄などの布で2重に縁取られ、その外側に上下が撥型に開いた錦の布が縫い付けられ軸装されます。また表装の上辺には通常、画面を覆うための薄い幕と2本の帯が取り付けられています。
なお、タンカは持ち運びに便利であるため、室内における瞑想や街頭での説法など様々な場面で用いられます。しかし、中には寸法が10メートル以上に及ぶものもあり、こうしたタンカは寺院の祭礼などに野外で開帳され、多くの信者が参拝に訪れます。
3.ほとけたちのプロフィール
タンカに描かれるのはもちろん仏教のほとけで、日本でもおなじみの釈迦如来(しゃかにょらい)や観音菩薩(かんのんぼさつ)などはチベット仏教でも大変人気があります。しかし、中には多くの頭や手足をもつ、おどろおどろしい姿の忿怒尊(ふんぬそん)や妖艶(ようえん)なポーズをとる女性尊(じょせいそん)、あるいは男女の仏が抱擁し愛の歓喜をあらわす父母仏(ふもぶつ)など、私たちの日常的な感覚からすると異様なほとけも数多く見られます。
こうした「異様な」ほとけが描かれたのは、チベット仏教がインドで発展した密教(みっきょう)の影響を強く受けているからといわれます。密教は4~6世紀にヒンドゥー教の影響を受けて発生した仏教の一派で、この時インド土着の神々に由来する多くの頭や手をもつ「人間離れした」ほとけが登場しました。
密教は初期の仏教とは異なり、現実の生活に直結した祈祷をおこない、人間が本来もつ感覚や煩悩(ぼんのう)とよばれる様々な欲望を肯定する立場をとりました。普通は修行の邪魔になるはずの男女の愛欲でさえ、きちんとした修行法にもとづいてコントロールすれば悟りにつながるとする考え方です。こうした中から性のエネルギーを象徴的にあらわした女性尊や父母仏が次々に生み出されていきました。
インドでは13世紀にイスラム教徒の侵入によって仏教が滅び、それまで高度に発達を続けていた密教も大打撃を受けました。しかし、その教えはかろうじてヒマラヤを越えたチベットに残されました。タンカに描かれたのはまさにこうしたインド密教の集大成ともいえるほとけたちなのです。