平成20年2月5日(火)~3月30日(日)
はじめに
福岡藩主黒田家の草創期を支えた24人の家臣は「黒田二十四騎」と呼ばれ、江戸時代中期以降、人々に顕彰されてきました。有名なところでは、名槍日本号で知られる 母里太兵衛(もり(ぼり)たへえ)や、大坂の陣で戦死した後藤又兵衛(ごとうまたべえ)らがいます。現在でも、武者行列の開催や、顕彰会の設立等、二十四騎人気は根強いものがあります。3回目となる今回 は、彼らを描いた「黒田二十四騎図」がどのように成立したのかに注目してみます。
1、家臣伝の編纂
二十四騎図の成立に先駆けて、まず、福岡藩では、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した家臣達の略伝が編纂されました。ただ、この時は二十四騎というのは特に意識されていたわけではありませんでした。例えば、3代藩主 黒田光之(くろだみつゆき)の時代に貝原益軒(かいばらえきけん)が著した「黒田家臣伝(くろだかしんでん)」(3)には、24人より多い27名の人物が選ばれています。また、江戸時代後期に成立した「増益黒田家臣伝(ぞうえきくろだかしんでん)」(4)では74人と大幅に増加しています。
しかし、後に二十四騎に数えられる益田(ますだ)・衣笠(きぬがさ)・堀(ほり)といった面々は、これらの家臣伝では紹介されていません。堀に関して言えば、江戸時代初期に黒田家を出奔(しゅっぽん)しており、収録を憚(はばか)る事情があったのかもしれません。
いずれにしても、江戸時代中期には、彼らの活躍が文字となって人々に知れ渡る状況が出来つつあったと言えます。
2、二十四騎図登場
7.黒田二十四騎図(原種次 元文4年) |
それでは、二十四騎図が出来たのはいつなのでしょうか。今のところ最も古い図としては、幕府の御用絵師で、のちに福岡藩四代藩主黒田綱政(くろだつなまさ)に仕えた、狩野昌運(かのうしょううん)(1637~1702)が描いたとされるもの(個人蔵)が知られています。また、享保(きょうほう)19(1734)年5月に描かれた白描図(はくびょうず)(5)も存在しており、17世紀末から18世紀初めには、何種類かの二十四騎図が成立していたと考えられます。
しかし、福岡藩では二十四騎の子孫の原種次(はらたねつぐ)という人物が元文(げんぶん)4(1739)年に描いた図(7)が最初のものとして認識されていたようです。「長政公二十五騎附録(ながまさこうにじゅうごきふろく)」(福岡市総合図書館蔵)という本や「二十四臣之像(にじゅうよんしんのぞう)」(19)の巻末には、福岡藩の儒学者竹田定直(たけださだなお)によって、二十四騎図成立の経緯が記されています。それによれば、徳川(とくがわ)家の十七将図や武田(たけだ)家の二十四将図を見て、黒田家でも同様の図の必要性を感じた原が、5年の歳月をかけて調査を行い、黒田長政を含めた25人を選んで図と略伝を作成した、とあります。
先に見たとおり、原が二十四騎図を作成した時点では、既に他に同様の図は存在していましたので、この記述がどれだけ正確な事情を伝えているかは分かりませんが、武将の配列や甲冑(かっちゅう)の描き方等を見る限り、原の図が後の二十四騎図に大きな影響を与えたのは確かなようです。