平成20年2月5日(火)~3月30日(日)
3、二十四騎大捜査
その後、二十四騎図の画期は19世紀に訪れました。10代藩主となった 斉清(なりきよ)は文化(ぶんか)7(1810)年に、これまで世間に流布していた二十四騎図の誤りを正すために大規模な調査を行います。福岡藩の御用絵師尾形(おがた)家に伝わった資料によれば、まず、従来の図の検討から開始し、兜の形や表情等調査すべきポイントを絞っていきました。続いて二十四騎の子孫に甲冑を描いた図や肖像画の提出を依頼し、集まった情報を元に実証的な二十四騎図を制作しました 。ただ、黒田家を去ってしまった後藤又兵衛や堀平右衛門(へいえもん)らについては情報が得られなかったため、従来の図や人相書等を元に想像図を描いたようです。また、肖像画はあるものの甲冑が伝わっていない場合は、当時出版されていた兜の図案集を参考にして描いていたことも、残された資料(13)から読み取れます。
13.鎧・兜図(福岡県立美術館蔵 尾形家絵画資料 福岡県指定有形文化財) |
4、精密な二十四騎図の完成
原種良 18.黒田二十四騎画帖より |
こうして完成した二十四騎図は従来のような集団図ではなく、各人を別々に描いた折本(おりほん)仕立ての大きな画帖(がちょう)(18)となりました。間近で見ると、甲冑の表面は絵の具が盛り上がっており、あたかも人物が浮き出てくるような印象を受けます。斉清は他にも植物の精密画等も制作させていますが、こうした手法は植物の描写にも見られ、博物学好きの蘭癖(らんぺき)大名(だいみょう)としての側面を窺うことが出来ます。
その後に描かれた二十四騎図は、少なからずこの図の影響を受けており、その意味では従来の二十四騎図の間違いを正そうとした斉清の意図が達成されたと言えるでしょう。
おわりに
二十四騎図が成立した背景として、今回は原種次や黒田斉清といった個人の動向を中心に紹介しました。しかし、個人的な動機だけでは、なぜ、これだけの二十四騎図が作られ、現在まで伝わっているのかは説明できません。秋の特別展では、二十四騎が求められた社会的・政治的な時代状況も含めて紹介したいと思います。
(宮野弘樹)