平成20年10月28日(火)~12月21日(日)
大型クジラの脊椎骨 (博多遺跡群) |
ゴンドウクジラの上顎、下顎 (博多遺跡群) |
4 中世の博多
(1)クジラ類の出土
大陸との玄関口・博多からは、クジラ類骨、とくにイルカ類骨が古代・中世の地層から出土します。これは、玄界灘が対馬海流とリマン海流とがぶつかり合う海域(潮目という)で、プランクトンや魚が豊富で、それをねらってクジラやイルカが回遊する好漁場でもありました。
ちなみに、西区唐泊沖でイルカ類を、1863年(文久3)には94頭、1875年(明治8)には343頭を捕獲しています。また、1961年(昭和36)には、ゴンドウクジラ類を捕獲しています。
イルカの脊椎骨(博多遺跡群) 焦げて切断痕がある。 |
博多遺跡群では、11、12世紀からイルカ類の椎骨が出土していますが、この時期の出土例は少ないです。その後、13世紀後半から出土量が増え始め、14世紀中期には哺乳類の大半を占めるようになります。
その理由として、今のところ次の四点が考えられています。
i、鎌倉時代後期は社寺の肉食に対する物忌日数が増大する時期であり、四脚獣に対する穢れ意識が進んだ結果、当時は魚とされていたクジラ類を多く食べるようになった。
ii、クジラ類の捕獲技術や同道具(網など)が進歩した。
iii、クジラ類からは鯨油が採取できることがわかり、灯油や食用油として利用され始めた。とくに、灯油として需要が伸びた。
iv、それまで贄として中央に送っていた制度が廃れ、地元で利用されるようになった。
昭和通りを挟んで博多リバレイン附近と博多小学校付近には、室町時代~近世に属するクジラ類の骨格が多数出土している特異な地点があります。遺構群から全長5メートル超級のゴンドウクジラ類から、10メートルを超える大型のクジラの椎骨が出土しています。また、明確な切創が残されている上腕骨などが出土しており、この地点がクジラ類の解体場であったと考えられています。
(2)クジラ類の利用
クジラ類の利用は、先述のように食料としてはもちろんですが、鯨油を灯油や食用油として利用しているようです。
博多遺跡群から出土する部位としては椎骨が多く、一基の土坑から数個出土したり、椎骨が連結した状態で出土することもあります。つまり、クジラ類、とくにイルカ類は海岸で解体され、各家庭には背骨が付いたブロックで持ち込まれています。出土した骨が焦げていることから推測すると、火で炙って美味しく食べていたのかもしれません。
イルカ頭蓋骨出土状況 (博多遺跡群) |
イルカ脊椎骨(博多遺跡群)5連結した状態で出土している。 |
ゴンドウクジラの頭蓋骨(博多遺跡群) 上顎は切断され、後頭部は割られている。 |
椎骨以外では、頭蓋骨も出土していますが、後頭部を割られており、脳油を採ろうとして割った可能性も考えられます。館山市長須賀条里制遺跡で同様の出土状況が確認されています。同じ頃の日蓮上人の書簡には「鎌倉では、安房の大魚ねすみいるかから油をとっており、臭い」という内容の記述がみられ(『鎌倉遺文』)、当時、クジラ類から灯油用として鯨油を採取していたことがわかります。また、出土した骨のなかには白くスカスカなものがあるため、骨をボイルして採油することもあったようです。
次に、クジラ骨の骨角器については、鎌倉遺跡ではイルカ頭蓋骨から栗形等の骨角器を製造していますが、博多でも大型クジラ類やイルカ類頭蓋骨から骨角器を作った痕跡が少数ではありますが出土しており、中世鎌倉とよく似た傾向をみせています。他に、ヒゲクジラ類の鯨髭製の茶杓や笄と思われる製品が出土しています。
このように、中世博多でのクジラ利用は、食料はもちろん灯油としての鯨油、工芸品としての骨角器と多種に及び、生活のなかで多く利用されていて広がりをみせています。
(鳥 京一)