平成20年12月23日(火)~平成21年2月22日(日)
8 志賀海神社縁起(境内図) |
三、社寺縁起(えんぎ)と境内
「縁起」とは物事の成り立ちの本質をあらわす仏教の言葉ですが、一般には寺社の創立の由来という意味で用いられています。
中世には個々の社寺の霊験(れいげん)を広く宣伝する必要性から、境内図を伴った社寺縁起絵や参詣曼荼羅(さんけいまんだら)が成立します。こうした中、九州では蒙古襲来の後、八幡宮系の神社を中心に神功皇后(じんぐうこうごう)の説話を取り入れた掛幅(かけふく)形式の縁起絵が多数つくられました。
志賀海神社(しかうみじんじゃ)に伝わる「志賀海神社縁起」(No.8)もそのひとつで、第一幅は境内を、第二・三幅は神功皇后の「三韓出兵」にまつわる物語を描いています。このうち境内図は鎌倉時代に描かれ、他の二幅はしばらく後に付け加えられたと考えられています。
描かれた境内には誰もいないように見えますが、後ろの山には神の遣(つか)いとみられる鹿が遊び、ひっそりと束帯(そくたい)姿の人物が立っています。姿なき神が姿をあらわした「影向(ようごう)」の場面であり、これから始まる神功皇后の壮大なストーリーの始まりを告げているかのようです。
いっぽう「雷山古図(らいざんこず)」(No.9)は背振山地の西方にある千如寺(せんにょじ)の繁栄を描いた絵図で、そこには「雷山三百坊」といわれるほど繁栄した中世の境内の様子が詳細に描かれています。
9 雷山古図 |
この図は江戸時代に村井守憲(むらいもりかね)という人物が制作したことが落款からわかりますが、残念ながら原本となる図の存在が知られていません。しかし千如寺は鎌倉時代の蒙古襲来の際に「異国降伏(いこくごうぶく)」の絶大なる霊験を誇り、活発に活動していたことは確かなようです。本図はそうした歴史を踏まえた上での一種の縁起絵として描かれたものかもしれません。
四、近世の境内
戦国乱世から天下統一に向かう過程で、中世に繁栄した社寺の多くが焼き討ちにあい、寺領や経済的な特権を剥奪されました。その結果境内は荒廃し、全国的にかなりの社寺が失われたといいます。しかし江戸時代になると、かつての繁栄には遠く及ばないものの、幕府や各藩の保護政策により再興された社寺も少なくありません。
筑前では豊臣秀吉の九州平定後に入国した小早川氏により太宰府天満宮や筥崎宮、宗像宮の社殿が再興され、黒田如水(くろだじょすい)も太宰府天満宮を復興し、あとをついだ長政(ながまさ)はもと太宰府横岳にあり戦乱で荒廃していた崇福寺を博多千代の松原に移転再建し、黒田家の菩提寺としました。
13 桜井与止姫社古図(部分) |
その後も歴代藩主が領地を寄進するなどして筑前領内の主だった社寺も徐々に再建され、二代藩主黒田忠之(ただゆき)は寛永九年(1632)、志摩郡に桜井神社を新たに創建しています。
「桜井与止姫社古図(さくらいよどひめしゃこず)」(No.13)は創建当時の桜井神社を描いたもので、社殿とともに多数の本地仏堂が建てられていたことがわかります。ところが同社は寛文十二年(1672)に三代藩主光之(みつゆき)の命により仏教排斥を主張する唯一神道(ゆいいつしんどう)の祭式に改められ、その結果境内にあった仏堂はすべて撤去されてしまいました。
こうした処置は後に神仏分離(しんぶつぶんり)の名のもと、明治新政府によって全国的に実施され、明治維新を境に境内の景観は大きく変わることになりました。