平成21年1月14日(水)~平成21年3月15日(日)
はじめに
昨年の秋に当館では自主企画の特別展覧会として「黒田長政と二十四騎 ―黒田武士の世界―」を開催しました。この展覧会は、黒田孝高(如水)(くろだよしたか(じょすい))・長政(ながまさ)父子とともに戦乱の世を生き抜いた24人の重臣「黒田二十四騎」にスポットを当てたもので、黒田家の草創期を主に戦働(いくさばたら)きによって支えた家臣たちを紹介しました。
しかし、江戸時代は寛永(かんえい)14(1637)~15年の島原の陣(しまばらのじん)以降、幕末に至るまで大きな戦乱は起きず、平和な時代が続きました。このため、黒田武士たちにも戦場での活躍だけではなく、領内統治における官僚的役割をも求められるようになりました。
そこで、今回は福岡藩士の大野忠右衛門家(おおのちゅうえもんけ)を取り上げ、平和な時代の黒田武士について紹介したいと思います。大野家の歴代当主は、大目付(おおめつけ)や納戸頭など、藩政の実務を担う官僚として活躍しました。この展覧会を通じて、黒田武士の別の一面に触れていただけたらと思います。
大野家旗図(おおのけはたず) |
一、大野忠右衛門家の出自
では、はじめに大野忠右衛門家の出自について見ていきましょう。
文化(ぶんか)期(1804~18)の福岡藩士の石高を記した分限帳(ぶげんちょう)には、「大野」を苗字とする家が12家記載されています。これらは、播磨国(はりまのくに:現兵庫県)を出自とする家と伊予国(いよのくに:現愛媛県)を出自とする家に大きく分けられます。後者は、元来は伊予国守護河野(しゅごこうの)氏の家臣で、天正(てんしょう)13(1585)年に羽柴秀吉(はしばひでよし)が四国を平定した後、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に従った大野左馬右衛門直吉(さまえもんなおよし)の息子、勘右衛門直生(かんえもんなおき)・久弥氏重(きゅうやうじしげ)・忠右衛門吉乗(よしのり)の3人を祖とします。三兄弟は、直吉の死後に豊前国中津(ぶぜんのくになかつ:現大分県中津市)へ移り住み、黒田二十四騎の井上之房(いのうえゆきふさ)を頼って黒田家に仕えました。
慶長(けいちょう)5(1600)年9月、関ヶ原合戦(せきがはらかっせん)の際に、黒田如水が大友吉統(おおどもよしむね)と戦った石垣原合戦(いしがきばるかっせん:現大分県別府市)では兄弟揃って出陣し、とくに直生と氏重は共に大友方の将を討ち取る活躍をし、如水から感状を与えられています。その後、黒田家が筑前に入国し、井上之房が黒崎城(くろさきじょう:現北九州市八幡西区)を預けられた際、3人共に之房に与力として付けられ、直生は500石、氏重は700石、吉乗は300石の知行を与えられました。
今回取り上げる大野忠右衛門家は、吉乗の家系にあたり、その子吉勝(よしかつ)は島原の陣で戦功をあげました。